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 船宿を飛び出したあの日からきっかり十日後、勝介より呼び出しがあった。もう二度と会うことは叶わないと思っていたのに、油を買いに来いということだった。油問屋に油を買いに行く。そんなことは当たり前過ぎて何がしたいのか小紫にはまるで理解できなかった。  道すがら、なんとなく気になってあの藤棚を見に行ったら既に花は終わっていた。諦めの悪い小紫でも自然の摂理は受け入れるしかない。もうすぐ雨の季節がやってきて、それが終われば夏が来る。そういうものなのだ。  油問屋の青い暖簾をくぐる。大店(おおたな)猪野屋は本日も客の入りは上々であった。初めて来た小紫に店の男が近づいてきた。初老の男は小紫が訪ねてくると知っていて、挨拶をしてきた。 「小紫さんですね。お待ちしておりましたよ。さぁさぁ、店の奥へ」  魚油の臭いがする店内を抜け、中庭へと抜ける。生臭さから開放されると、そこには小さいながられっきとした藤棚があった。 「藤棚……」  思わず口に出すと案内していた男が「ああ、若旦那の趣味でしてね。今年はもう終わっちまって、また来年ですわ」と、にこやかに説明した。 「また来年」  そこだけなぞって、女々しさの極みだった。自分にはまた来年という語彙は消えたのに、藤棚の藤にすら悋気を起こすひどい有り様だ。しかも、自宅に藤棚があるならばわざわざ藤の花がどうだとか小紫に問うのはおかしいと悲しさを紛らわすために腹を立ててみたりして、なかなか感情が目まぐるしくていけなかった。 「若旦那がお待ちかねです。さあ、ここから上がってくださいませよ。今、水を持ってまいります」  単なる陰間に甲斐甲斐しく世話をする男、申し訳無さも手伝ってペコリと頭を下げた。その後、運んで貰った水で足を洗うと客間に通された。上座に鎮座し笑顔で小紫を迎える勝介の真意がまるでわからなかった。嫁は娶るが、小紫とも関係を続けたいのだろうか。そんなのこちらから願い下げだと、口を突き出して用意された下座に落ち着いた。 「小紫。なんだ、ご機嫌斜めか」  勝介の目が細められていた。腹立たしいほど人好きする顔だ。 「そりゃ、意味もわからず呼び出されりゃ誰だってそうなりやす」 「そうか? つい最近まで理由なしで呼んでおったが──」 「それは何をしたいか言わなくてもわかるから」  フッと息を吐きながら笑い、先程ここまで案内してきた男に「では予定通り、早いが夕餉を出してくれ」と指示をした。  まだ店も閉めていないのに夕餉を準備させようとしている勝介に、小紫は素直に驚いてしまった。 「何を始めようって言うんですか」  さぁてな。と、微笑む勝介に一発拳を押し付けたくなったがそこは目を剥いただけで耐えておいた。  少しして先程の男と女中が二膳、食事を運んできた。それを勝介と小紫の前に置いた。白米と鯵の煮付け、漬物と豆腐の味噌汁が美味しそうな香りを漂わせていた。 「豪華なことだ」  特に鯵の煮付けが見たこともないほど大きくてやたらと艶があり、色々な感情を吹き飛ばして小紫は唾が湧いてきた。 「この前、吉原に行った時にな、ちょいとばかしイイ話を聞いてきたんだ」  せっかくの美味いものを前にろくな話題ではない。それでも話は止まらない。 「遊女と男は、仮初めの夫婦。だから、馴染になったら二膳の箸を用意するらしい。夫婦揃いの箸をな」  そこで勝介が箸を持ち上げる。キラリと光るのは砕いた貝殻がはめ込まれているからだと小紫は知っていた。高級な箸だ。しかもどうやら紫色の何かがあしらわれている。 「俺は嫁を貰うつもりだ。しかしな、そやつは女ではないのでな、正式な嫁にはしてやれんのだ」  小紫はそこで自分の膳に置かれた箸に目をやった。勝介と同じ装飾、しかもこれは藤だ。 「仮初めの夫婦にしかなれんが、それでもここに越してこないか? 小紫」
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