塩のケーキに神対応

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 この日は役員会議があったため、いつもよりも帰宅時間が遅くなった。秘書の運転する車内で、砂月はスマホを取り出し、あるサイトを表示させた。『別れさせ屋』――そこへログインする。 「無事に宅配便は届いたのか?」  楽し気な声音で、砂月はメッセージボックスを閲覧する。予定では本日、宅配便の業者を装った別れさせ屋が、『愛する妻』のもとに荷物を届け、記念すべき八回目の接触を図っているはずだ。 「そうか。今日は雑談をして、家に入って、珈琲を振る舞われたのか」  別れさせ屋から届いた証拠画像と、報告に目を通しながら、砂月は口角を持ち上げる。  ただ砂月は、別段香織と別れたいわけではない。  香織をより深く支配するために、弱みを握りたいだけだ。別れさせ屋に、不倫の証左に見える写真を撮らせ、香織に突きつける日を、砂月は最近楽しみにしている。砂月は香織を愛している。だから本当は、たとえば抱きしめているような画像だって撮影させたくはないが、全ては香織を思っての事だ。  一目惚れだったのだ、こちらも。  見合いの席で香織を見た瞬間から、どのようにして手に入れるかしか考えていなかった。それは単純に入籍すれば良いという事ではない。香織という人間の全てを、手中に収めたかった。 「別れさせ屋が妬けるな」  呟いた声音は冷ややかだったが、その口元だけは笑みの形だった。  その後車が自宅前に停車したので、後部座席から砂月は降りた。秘書は何も知らない。だから人の良い代表取締役としての顔で部下を労ってから、砂月はインターフォンを押した。 「ただいま」  砂月の姿を目にした香織が微笑する。それに対して、満面の笑みを返す。  中へと入り、砂月は香織を抱きしめた。  その背中に香織も両腕を回す。その瞬間だけ、どちらの表情からも笑みが消えた。相手には見えないからだ。だが再び視線を交わせば、お互いに笑顔だ。 「今日は、ケーキを作ったんだよ」 「そうか。丁度会議が終わって、甘いものが欲しい気分だったんだ」 「よかった。夕食は?」 「まだだ。ただ、先に香織の作ったケーキが欲しい」  そんな取りをしながら室内へと入り、まっすぐにダイニングへと向かった。そこに置いてあった生クリームのケーキを見ながら、砂月がネクタイを緩める。すぐに香織はケーキを切り分けた。大量の塩入りのケーキを。 「はい、どうぞ」 「いただきます」  上品に手を合わせてから、砂月がフォークを手に持つ。  そして伏し目がちにケーキを口に運んだ。  香織は反応を楽しみに、目を輝かせている。傍から見れば、褒められる事を疑っていない子供のような、純真な表情をしていた。  ケーキを咀嚼しながら、砂月は一瞬だけ視線を揺らした。塩と砂糖を間違えたというよりも、塩の塊を食べている状態の口腔に、最初は自分の頭を疑った。砂月の考えとして、ケーキとは甘い品だった。香織も先程、『甘い』という言葉を否定しなかった。だが明らかに塩の塊が入っている以上、間違えたというスケールではない。 「砂月さん、美味しい?」 「――最近流行しているという、塩のケーキか」 「え?」 「俺は会社で話にしか聞いた事は無かったから、人生で初めて食べたな」  ……塩のケーキ?  混乱したのは、香織の方だった。この反応は考えていなかった。  砂月は疑う様子もなく、フォークを置き、柔和に笑って香織を見ている。 「香織が俺のために作ってくれた品を残す事は気が引けるが、俺はあまり好みではないな。しかし最近の流行は凄い。俺も、もう歳だな」 「……そう」  これは俗にいう天然ボケという状態なのだろうかと、香織は焦っていた。 「ところで、今日は荷物が届く予定だったはずだが」 「ええ。業者の方が届けて下さって」  頷きながら、砂月は思案した。宅配業者を装った別れさせ屋に心を惹かれかけているため、離婚しようと嫌がらせに塩をケーキに入れたという事はあり得るのだろうかと、約三十秒間熟考した。いいや、あり得ない。そんな事になれば、別れさせ屋の担当者には、社会的に人生をリタイアしてもらうほかない。その手はずは整っている。 「さて、夕食にしよう。ケーキは、香織が全て食べてくれ。好みなんだろう?」 「――砂月さんが帰ってきたら、全体の形を見せてから切り分けたかったから、まだ食べてないんだよね」 「一つ味わってみるといい。しかし知らなかった、香織が塩派だとは。卵焼きもいつも甘いから、俺は誤解していたよ。なんなら明日、岩塩を買いに出かけようか?」  笑顔の砂月の声には、棘も怒りも感じられない。だが客観的に考えれば、これは嫌味だろうと香織は判断する。だが喧嘩をしたいわけではないのと、思った通りの反応を得られなかった事を理由に、もうこの件は忘れる事に決めた。 「明日は映画を見に行く約束だったし、帰りに調味料専門店に行くのは良いかも。砂月さんは、何派?」 「俺は貧乏舌だから、レトルトも嫌いじゃないんだ。チープなカレールーが美味いと感じる事も多い」  そんなやりとりをした後夕食とし、今日は白のワインのコルクを抜いてから、二人で乾杯をする。終始笑顔で二人は談笑していた。  しかし甘い上辺とは裏腹に、お互いに内心では考えていた。『自分の方が相手を愛している』――だから、『もっともっと堕ちてこい』 。双方同じ心境だ。結婚しているとはいえ、お互いの認識としては、それぞれが片想いのままだ。まだ二人は本心を見せ合った事は一度も無い。典型的な両片想いである。
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