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――そして、数日が経過した。
「香織はどんな反応をするんだろうな」
急遽帰宅すると連絡を入れた後、砂月は会社を出た。写真が入る封筒を手に、鼻歌さえ零しそうになりながら砂月は帰路につき、それから顔を引き締めた。激怒はそれらしくないから、淡々と理詰めで追い詰めて楽しもうと考え、ワクワクしていた。その瞳は、玩具を見つけた子猫のようだ。
インターフォンの前に立ち、砂月が鳴らす。
「おかえりなさい、急用って、何かあったの?」
「香織、話があるんだ」
深刻な声音を形作ってから、俯きがちに砂月は中へと入った。いつもするように抱きしめる事はしない。香織は『真面目な表情も本当に格好いい』と感じながら、その後に続いて中へと戻った。
砂月が無言のまま、リビングへと向かう。そしてソファに座った。香織も対面する位置に腰を下ろす。
「これを見てくれ」
封筒をテーブルの上に砂月が置く。香織がそれを受け取る。
「会社宛てに届いたんだ」
消印などの偽装は完璧である。香織は、封筒の宛名を見て、仕事関係の話はめったにされないため不思議に思った。そして中の写真を見て目を見開いた。
「これ……何?」
「俺が聞きたい。そこに映っているのは、先日会った宅配業者の方だな?」
「そうだっけ……? うん、多分……?」
「香織、あの日生々しい目で見られていると言っていたが、何故その相手と抱き合っているんだ?」
「ち、違う、待って」
砂月の眼差しが冷酷なものへと変わった。内心では笑い出しそうだったが、演技だ。一方の香織は、非常に困惑していた。転んだところを抱き留められた記憶があるが、何故それが写真に撮られているのか理解できない。
しかも砂月の会社に届いた、これが解せない。カメラを構えるタイミングが良すぎはしないだろうか? 狙って撮ったかのようだ。だがこの時転んだのは偶発的な事で、具体的に言うのであれば宅配業者の方が先に転んで、足払いされるようになり躓いたのだから、偶然とも言い難い、と、ぐるぐると香織は考える。
何より砂月は人気者だ。砂月狙いの女性を蹴散らしている香織の経験上、自分達の仲を裂くべく誰かがカメラを構えていてもおかしくない。
「何がどう違うんだ? 分かるように説明してくれ」
「この人は……」
砂月を怒らせたくはないし、不仲になりたくない。だが確かに抱き合っているようにしか見えない写真が目の前にある。香織は必死で思考を巡らせた。
困っている香織を見て、砂月は腕を組む。
予定では、蒼褪めるか取り乱すと考えていた。だが、どちらでもない。
やはり遠藤ではダメだったのか、全て露見しているのか、と、嫌な予感に襲われる。
「……転勤したの。私の事が好きだから、最後に抱きしめさせてほしいって言われて……」
そんな話は聞いていないぞと、砂月は耳を疑った。一体、香織は何を言い出したのだろうかと、じっと見据える。
「断ろうとした時には、もう抱きしめられていたの……私は、砂月さん一筋だから、すぐに拒んで離してもらったけど」
香織が目を涙で潤ませた。自由に涙を流す特技の持ち主だ。
砂月は戸惑う。これは完全に、香織の『嘘』である。何せ、当日の音声データの録音記録も届いている。しかし、どうしてこんな嘘を? 不思議に思った砂月は、右手の人差し指でこめかみを解す。
過去、砂月は、自分の思い通りに物事を動かそうとして、失敗したことはない。ただ、『父を蹴落とし早く社長になれ』と、祖父に言われた時の事を想いだした。
祖父は、砂月とよく似た性格をしていた。その祖父の遺言は、『もし思い通りに出来ない相手がいたならば、それは同族だと心得えておくがよい。サイコパスという名をしているらしいが、我々を型にはめようなどとは実に下らない』との事だった。
考えてみれば、香織には疑問な点は多々ある。例を挙げるならば、塩のケーキか。それ以前から、不可解な言動はあった。一緒に暮らしはじめて、あきらかなウソ泣きを何度も見た。着眼していなかったから――ウソ泣きでも麗しければ構わないと思って気にしていなかったから特に指摘はしてこなかったが、考えてみるとあからさまだ。
「腹を割って話そう、香織」
「私は嘘なんてついてないよ! 私を信じてくれないの?」
「待ってくれ。君は、その……」
砂月はそこで言い淀んだ。
どちらを聞くべきか悩んだ。『サイコパスなのか』と『俺を好きなのか』だ。後者が出てきた理由は明確だ。もしも己が塩のケーキを出して反応を見る場合、『気を惹きたい』からだと正確に導出した。もし嫌いだったら、それとなく気づかないように塩分量を増やして天国へ逝ってもらう、じわじわと。
「砂月さん、私を信じて!」
信じてと口にしつつ、香織も熟考していた。やはりどう考えても、この写真はタイミングが良すぎる。己の推測が正しいならば、写真を撮らせた候補に挙げるべきなのは――砂月、当人も考えるべきだ。だが、何のために? 不倫の証拠を作らせて、どうする? そんなのは、基本的に離婚したいからだ。絶対に離婚などしない。
最初にそう考えたが、続いてふと疑問に思った。
あの塩の塊を食べても天然ボケじみた言動で流す人間が、直接糾弾……そんな事はあるのだろうか? 『もしかして私の反応が見たいのではないか』と考え、『何故?』と、なる。そんなものは、自分に当てはめれば明確だ。『好きだから』だ。
「もしかして俺を好き?」
「もしかして私を好き?」
そこで二人の声音が重なった。二人は双方目を見開き、お互いの瞳を見る。
暫しの間、その空間には沈黙が横たわった。どちらともなく、ぎこちなく頷いたのもほぼ同時だった。
「……俺は、一目惚れだった」
「私もです……え? 本当に?」
二人は今度は見つめ合った。静寂が訪れる。
次に二人が頷いたのも、ほぼ同時の事だった。この日初めて、二人の気持ちは通じ合った。
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