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「行ってくる」
いつもの通り、橘内家の玄関を開けて、主人の砂月が姿を現した。見送っているのは妻の香織だ。
「行ってらっしゃい」
微笑を浮かべた香織は、線が細くどこか儚げな美貌の持ち主だ。一方の砂月は、誰もが見惚れるような端正な顔立ちだ。質の良いスーツを身に纏っていて、腕時計はスイスのあるブランドの品だ。父より会社を受け継いだ砂月は、二十七歳という若さで、歴史ある企業の代表取締役をしている。
そんな砂月と香織が出会ったのは、見合いの席だった。家同士が取り決めた、典型的な政略結婚だった。
どちらも見目麗しく、まさに理想の二人だと、周囲はもてはやした。
まだ結婚して三か月の二人が家を構えたのが、この閑静な住宅街で人当たりの良い二人の事はすぐに評判になった。
香織は少しだけ内気だが、話しかければ小さく微笑を零すし、主人の砂月も評判が高い。香織を大切にしている事が伝わってくるからだ。
――実際、砂月は香織に対して、非常に紳士的だ。三歳年下の妻を気遣い、家事も手伝えば、度々土産を買って帰り、手料理には賛辞を忘れない。
砂月を見送ってから、香織は家の中へと入った。鍵を閉めてから、扉に触れる。その左手には、銀色の結婚指輪が輝いている。
「退屈……」
日がな一日家にいるばかりで、刺激が少ない。今日の予定は、宅配便が届くから受け取っておいてほしいと言われたくらいだ。他には料理をするだけだ。
「料理……」
漠然と香織は考えた。あのいつも温厚な砂月は、果たして不味い品を出されたらどんな反応をするのだろう。簡単な事だ。塩と砂糖を間違えた、愛らしい妻を演出すれば、その結果を見る事が出来る。
香織は砂月の事が好きだ。見合いの席で一目惚れして以来、砂月の事ばかり考えている。だから砂月の事は全て知りたい。
この日、香織は大量の塩を入れたケーキを作った。
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