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「ああ、言ってたなあ。近所にサーカス団一行が興行でやって来た時に、琴子を連れてったら、空中ブランコを見て大興奮してたなあ。しまいには、いつか大きくなったら、空中ブランコをやるなんて言ってたな」
大言壮語なところは母親に似たのか。
「わたし、小さな頃、そんなこと言いながら、今は絶叫系マシンとか、ダメなんだよね」
「あの頃に戻りたいなあ」
父親は項垂れた。琴子は父親の傍らに寄り添い、その細い肩にそっと手を置いた。
父親は涙目になって、琴子を振り返った。
「お父さん、死んじゃやだよ」
琴子は父親に抱きついた。父親も抱き返した。
琴子はその時、涙が出ない自分に愕然とした。映画やドラマのシーンでは、ここで涙をこぼすのだが、まるで栓をされた蛇口のように、涙が頬を濡らすことはなかった。
悲しいのに泣けない自分が歯がゆかった。
「無理に泣かなくていいんだよ。人間は本当に悲しい時は、涙が出ないというからね」
父親は気丈に言った。
「わたし、本当は冷たい人間なのかな?」
「あまり深く考えてはいけないよ」
父親のそんな些細な心遣いが憎らしい。
初出社の二日前に、母親とその再婚相手とホテルで顔合わせをすることになった。
男性は五十代後半で、恰幅がよかった。人当たりの良さそうな笑みを浮かべて、一礼してくれた。
母親は早くも再婚相手の予定の早川秀彦と腕を組んでいる。母親が乙女の顔になっているところを初めて見た気がした。
「こちら、早川さん。運送会社を経営してらっしゃるの。一代で会社を築いたのよ」
母親が紹介すると、早川さんは照れ臭そうに笑った。
「母をよろしくお願いします」
琴子は思ってもないことを口走った。まだ、琴子は父親のことが頭にあり、素直に喜べなかった。
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