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「涙は女の武器って言うけど、これをビジネスに使うって発想はわたしが思いついたの。ビジネスチャンスはどこにでも転がっているのよ」
焼き鳥は美味しかった。佐伯さんと飲んで食べていると、更に美味しく感じた。
「でもね、わたしはあることをきっかけに涙が出なくなったの。後にも先にもあの時の社員の不祥事を庇うために涙を流した一件だけよ」
佐伯さんは何か嫌なことを思い出すかのように顔を顰めた。
佐伯さんはラルムに入る前に、百貨店の紳士服売り場にいた。そこの上司である梶間とは不倫の関係にいた。
もちろん、不倫は倫理的に許されない。そうとはわかってはいても、してしまうのは人の性かもしれない。背徳感が背中を後押ししたのかもしれない。
梶間には妻子がおり、家でも職場でもマイホームパパと呼ばれていた。周囲からは最も不倫から遠い存在だった。
だが、佐伯さんとは上司と部下の垣根が取り払われるのも、時間の問題だった。
所詮は男と女である。不倫だろうが、なんだろうが、恋におちること自体、何の不思議もない。
しかし、不倫というものは当事者もその関係者も巻き込んで、不幸な連鎖を作っていく。
梶間の不倫が妻の知るところとなり、百貨店の売り場に妻が怒鳴り込んできた。
妻は口角泡を飛ばす勢いで、佐伯さんを捕まえて、がなり立てた。
その時、佐伯さんは涙を流して、謝罪をした。だが、妻はうそ泣きだと言い、更に怒りを増幅させた。フロアで泣きじゃくり、周囲から好奇の眼差しに晒された佐伯さんには、もう居場所はなかった。
佐伯さんは結局、閑職に回され、会社を辞める決断をした。
その一件以来、佐伯さんは泣こうとすると、涙がまったく、出なくなってしまったのだ。泣こうとすると、不倫の末に捨てられた自分を思い出してしまうのだ。
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