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信号が青になり、琴子は通りすがりにもう一度、確かめようとした。向こうはまったく気づいていない。
これでも琴子は視力は2.0だ。絶対に見間違えるはずはない。
和樹と思しき男性に近づこうと足を踏み出した時、誰かとぶつかってバッグを落としてしまった。素早くバッグを拾い上げ、周りを見たが、和樹らしき男性と謎の女性の姿はなかった。
「ねえ、来週の日曜日、暇?てか、仕事辞めたばかりだから、暇よねえ」
母親が琴子に声をかけた。
琴子は風呂上りの後、ドライヤーで髪を乾かしていた。
癪に障るが、本当のことなので、口を噤む。
「会ってもらいたい人がいるの」
母親は嬉しそうだった。母親はまだ五十代後半だから、女盛りである。順番としては、母親が運命の人を先に見つけてほしいと思っていた。
「お母さん、再婚相手には慎重にね」
「あんたといっしょにしないで。でも、琴子はお父さんに似たのかしら?お父さんも酒が入ると、泣き上戸だったからね」
「あの、わたしは酒が入ると笑い上戸になるんだけど」
「あ、そうか。琴子は悲しい場面では泣けないものね。お父さんの葬儀の時も涙一つ流さなかったからね」
いわゆる、うそ泣きの人の特徴の一つだ。
そうなのだ。わたしはなぜか昔から、肝心な時に泣けないのだ。このことに関しては特に不自由は感じてはいない。ただ、父親の葬儀の時くらいは、うそでもいいから、泣いておくべきだった。
親戚筋からは、ずいぶん冷めた娘さんだことと、陰口を叩かれた。
でも、本当は悲しかったのだ。悲しいのに涙が出ない。琴子は自分の才能を心底、恨んだ。
今夜は久しぶりに飲みたい気分になった。
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