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「じゃあそれだけだから、俺、帰るわ」
そう言いこの場から早く退散しようと彼女に背を向けると、
「――だよ」と俺の背中に、前にもぶつけられた覚えのある言葉が当たる。
すぐには振り向かなかった。立ち止まって考えた。
彼女もダメだとわかっている。そんな言葉を俺に向けてはいけないことを。
でもこれは彼女が俺の気持ちに気づいた最後の選択でもある。
今ここで振り返れば、ダメになってしまう。俺も、彼女も――。
俺は立ち止まったまま無意識に天を見上げていた。
相も変わらぬ蛍光灯。そいつが俺の顔を照らす。
それだけだった。
決して振り返ってはならない、わかっているはずなのに彼女の気持ちもわかればそれは、もう――。
振り返り、十年前に戻ったかのようにキスをした――。
昔のように暖かな香りはしなかった。むしろ冷たかった。彼女の唇の温度も。化粧が漂わせる化学的な香りも。
あの時よりもなぜか甘く感じた唇を離すと、彼女は俺の手をゆっくり掴んだ。
彼女の手からスッと俺の小指に指輪を嵌めるが、第一関節と第二関節の中間でつっかえて止まる。
「これ、返すね」
返す……。そうか、そういう意味なのか。勘違いしていた。
十年前、あの閑静な住宅街でキスしたあとにタイムスリップしたかのように、時間が再び速度を増して動き始めた気がした。
終わりへの続き。
生乾きの初恋、終わりに向かって――、ようやく。
本当の意味での失恋、最後の別れ。そして俺の気持ちを理解した上で、ノーを突き付けた彼女の優しさ。
気づいていた、覚悟の上だった。彼女は既婚者なのだから、少しでも期待した自分が馬鹿みたいだ。いやそんなことはいい。初めからわかっていたこと。そんなことより、俺が終わらせに来たことを理解した彼女。そして彼女自身も終わりを求めていた。
ことを理解すると、喉の奥から熱いものが目頭に向かって圧迫する感覚。
声を震わせずにはもう話せなかった。それでも言わなくてはならない。
最後、彼女が指輪を返したように。
「もう……この指輪、一生……一生返さないからな。…………じゃ、さよなら」
と捻りだすように言うと、もう、涙でまぶたを開けることが難しいほどに視界はぼやけていた。
歪む景色の中、彼女は目じりにしわが寄り、両目を食いしばるように強く閉じて、声にならなかったのだろう、頷く仕草をしたのだけ確認できた。
最後、俺ができる優しさはこのくらいだ。
もう、振り返らず去った。
幸せにな――――。
後に視力を失った。
おとぎ話のように、王子様の病を治すキスではなかったようだ。
ただ、最後のキスで目を覚ましたのは確かだろう。そういう意味ではおとぎ話のようでもあった。
これからさき、盲錠の世界にも光はあるのだろうか。
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