112 誘惑の生肉

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112 誘惑の生肉

                  「…いつもは、どのように食事をしているんだい…?」    と、薄水色の着物の袂で箸を拭ってくださっているユンファ様は、それに目線を下げながら俺へそう尋ねてくる。   「……、いつもは…その、大変みっともないことではございますが…――いわば、犬のように…」   「…犬…? 犬の、ように…?」    はたり。――目を丸くして俺の目を見るユンファ様は、…そうか。もしや、犬すらも知らぬのか。  いや、先には狼のようだね、と言ったユンファ様である。犬や狼の存在こそ知ってはいるのだろう。  ただし、犬や狼がどのようにして肉を食らうのか――ということまでは、知らぬご様子である。   「……つまり…、皿に口をつけ、そのままガブガブと肉を食らうのです……」    俺が致し方ないと伝えれば、ユンファ様は目を丸くしたままにぱちぱちと目をしばたたかせ。   「…そう…、ああ、なら…なぜ、そうしないんだ?」   「……は…」    意外な返答に、俺もまた目を丸くする。  ユンファ様は至って不思議そうに、首を傾げて見せる。   「…ソンジュ…それが狼のやり方ならば、何も恥じることはないだろう? 遠慮なく、そのように」   「……あぁ…、…」    なんと懐の深いお人か。  いや、ある意味では世の中を知らぬからこそ、世の基準でいうところの、犬食いなどみっともないという価値観が、ユンファ様にはそう無いのやもしれぬ。   「…それとも…、僕が君に、食べさせてやろうか?」   「……ぇ、いっいいえ、そういうわけにはゆきませぬ…」    あまりにも無垢にそう提案してくるユンファ様に、俺はどきりとする。――ご自分の身分も考えず、あるいは俺がそう頼めば、なんの疑いもなくそうして俺に肉を食わせてくれそうなユンファ様だ。   「…それはなぜだい? 君が困っているのなら、僕は喜んで君を助けるよ」――と、やはりなぜ助けを拒む? その理由は何? という調子のユンファ様である。   「…いや恐れ多きことです、俺は、間違っても貴方様に、そのようなことをしていただくわけには……」   「そう…? しかし、僕は構わないけれど…」   「…………」    はっきりいって、揺らぐ気持ちがある。  この美しい人に、あーんと食わせてもらう…――いやしかし、ユンファ様は俺よりもご身分の高い方、…だが、好いた人に肉を食わせてもらう。  迷う俺は、赤い血の滴る生肉を見下ろし、ゴクリと喉を鳴らした。――腹は減っている。…ただ、これをがっつく姿をユンファ様に見られるというのも、結局俺としては羞恥心から、ならば今夜は飯抜きでもよい、と考えるほどのことなのだ。   「…遠慮するな。食わせてやろう」   「…い、いや、そんな、恐れ多い…、…」   「…………」    ユンファ様は何も言わず、手に持った箸の先で――俺の皿の上の生肉を一かけ、摘み。…持ち上げ、俺の口元へと持ってきた。   「…はい。…ほら、お食べソンジュ」   「…グッ…、……――。」    俺は――その芳しき血の匂いに勝てず、ユンファ様に食わせてもらうという甘美な経験にもよほど勝てずに、――俺は、その生肉に食らいついた。        
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