96 俺の肩に留まれ

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96 俺の肩に留まれ

               俺の腰まで湯が満ちた、この浅い浴槽の中に座る。  …俺たちが入ったこの浴槽は浅いがとても広く、大の大人二人は寝そべることができるほどの広さがある。――そして、俺に横抱きにされたままのユンファ様はいまだ、す…とその切れ長のまぶたを閉ざしている。  俺に背を支えられ、抱き上げられている彼はぐったりと、俺が今しがたまで持っていた膝裏――その膝を曲げた形のまま、俺が置いたままにゆるく立つのは、その細長く白い両脚だ。    下に垂れ下がる、美しかった長い黒髪――俺は、浴槽の側の床に置いてあったタライの中から、手拭いを取った。  そしてその白い布を浴槽の湯に濡らし、その精にまみれて汚れた、端正な顔をそっと優しく、それで拭う。   「…………」   「…………」    いつの間にやら剥げた唇の紅…しかしそんなものなくとも、ユンファ様の唇は赤く、艶があり、肉厚で妖艶だ。  その切れ長のまぶたのフチに引かれていた紅はこすれ、いくらかは消え、にじみ――この白い手拭いに、赤を移し。    そうして何度も手拭いで汚れを拭き取っては、その手拭いに付いたものを湯に溶かした。  そうすれば、すっかりとまた綺麗になったユンファ様のお顔は――いま、とても安らかな眠り顔だ。    精が取れ――薄化粧が取れれば――昨夜と同じ、清らかなままの、無垢な美しい眠り顔となる。  俺の贈り物の林檎を握ったままに眠っていた、あのときの顔とまるで同じ、とても美しく安らかな顔だ――。   「……ユンファ様…」   「…………」   「……、…」    愛おしく、悲しい。  無力な己を恨めども、到底許せぬと思えども――俺が今行動に移せる報いは、何も無い。    初心な人であった。  口吸いに舌を絡め合わすことさえ知らぬ、大変に初心な人であった。――接吻とは、唇同士を合わせることだけ、ただそれだけのことだと思っていたような…そんな、ユンファ様が――俺は、その人の背を支えるこの片腕を、ゆっくりと…下へ沈めていく。   「………、…」    ユンファ様の長い黒髪が、透明な湯に浸ってゆく。  ふわりふわりと水中を舞う、たおやかな黒髪――額のほうからまた、手拭いでその髪も清める。   「…………」   「…………」    白く安らかな顔――まるで、死人のようだ。      美しい人よ――美しい胡蝶よ。  何故(なにゆえ)人は、美しさの虜となるのか。      誰よりも、何よりも清らかであった胡蝶よ。  …もう飛べぬと嘆くな。――俺の肩に留まれ。      そのうちに、俺が貴方を――籠の外へと連れ出そう。      今もなお穢れぬままに、自由に舞い踊る蝶よ。      お前らは知っているか。  …お前らの代わりに囚えられ、人に穢された胡蝶の羽がボロボロになっては、もうもはや、もう飛べぬと嘆く胡蝶がここに、いることを。      お前らのために魂を殺され、いっそ殺してくれと願う、この胡蝶のことを――お前らは、知っているか。     『 あんまり綺麗な胡蝶――ほかの蝶ども嫉妬した。 』   『あぁ嫌だ嫌だ、お前の鱗粉(りんぷん)が俺たちを汚すよ、お前なぞあっちへおゆき。』     『お前が代わりに囚われたなら、俺たちはみーんな幸せに生きてゆかれるんだ。さっさとお行き。お前なんぞいなくても、俺たちは幸せだ。むしろお前がいなくなってくれて、あぁ清々する。お前なんぞ籠の中で、人間の指に弄ばれながら、さっさと死ねばよいのだよ。』    お前らが疎ましがっていたこの胡蝶が、死んで結構、穢されて当然とお前らが人に差し出したこの胡蝶が、この誰よりも美しい胡蝶こそが――お前らの羽の自由な羽ばたきを、お前らに与えているということを、知っているか。      どれほどお前らに疎ましがられようとも、お前らを想い、身代わりとなったこの胡蝶を、穢されてしまったこの胡蝶を、憐れむでもなく自由に飛ぶな。      ころころ笑うな。なぜ泣かぬ。      お前らが知らぬなら、いや――知っていてもなお当然の報いと、お前らがこの胡蝶を嘲るならば。        いっそ俺が、お前らの羽を、(むし)り取ってくれよう。      
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