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歌留多は肩に提げたトートバッグの内ポケットにスマートフォンを仕舞いながら、ひとりで病院の廊下を歩いていた。
目的地の病室のドアを軽くノックして、少し待ってから中に入って行く。個室のベッドの上に、榛名が仰向けの状態で横になっていた。その顔は奥にある窓の方を向いていて、歌留多が入って来ても振り向かない。
「榛名さん、こんにちは」
明るく声をかけると、ようやく歌留多の方に顔が向いた。眼鏡をかけていない榛名は、ぼんやりとした表情で歌留多を見る。
「足、骨折じゃなかったんだってね。あ、でもヒビも骨折と同じ扱いになるのか」
「……」
榛名は黙っている。歌留多はベッドのそばにあった椅子に座り、いつも通りの調子で話しかけた。
「言うの遅くなっちゃったけど、あの時庇ってくれて、ありがとうございました。榛名さんのおかげで、こっちは頬の擦り傷だけで済んだよ」
歌留多は無意識に指先で自身の頬に触れた。そこにできた引っ掻き傷は絆創膏で隠されている。もう少ししたら外せそうだ。
目の前で気だるそうな雰囲気を纏っている榛名は、無言のまま目を逸らして天井を見つめた。すっかり気の抜けた彼を見るのは初めてで、歌留多は自分でも何故かわからずドキドキする心臓に戸惑う。
「顔に傷が残ったら、お嫁にもらってくれる?なんちゃって」
へらっとした笑顔で言った冗談にも、榛名は何も返してくれなかった。
天井を見ていた顔が再び窓側を向いてしまったため、歌留多は寂しそうに肩から力を抜く。その時ふと思い出して、床に置いていたトートバッグに手を伸ばした。
「あのね、榛名さんにこれを…」
「なぜ助けた」
「…え?」
顔を上げた歌留多の方を見ずに、榛名が力なく言う。
「君が余計なことをしなければ……私は、あの場で死ぬことができたのに」
「…、……」
ずきっと胸が痛んだ。
榛名さんは、ほんとうに死にたかったのだろうか。もしそうなら、自分は余計なことをしてしまった。
けど…
それでも…
歌留多は泣きたくなるのをぐっと堪えて、素直な気持ちを口にする。
「榛名さんが死んだら嫌だって思ったからだよ。こう見えて私、榛名さんのこと嫌いじゃないからね」
「……」
榛名がゆっくりと首を動かしてこちらを見た。先ほどと表情に変化がないため、榛名が今何を思っているかは分からない。
「私ね、これから榛名さんのことをもっと知りたいと思ってるの。それが理由じゃダメかな?」
「–––……」
歌留多はふわりと微笑んで言った。
歌留多の言葉に榛名は何か言おうと口を開いたが、結局何も言わず、代わりに重いため息が吐き出された。嫌そうというより、呆れたような反応だ。歌留多は少しホッとする。
「あ、そうそう。榛名さんに渡したい物があるんだよね」
歌留多は言いながらトートバッグに再び手を伸ばし、中から古く傷んだノートを取り出す。逃げる際に車の中まで持って来てしまっていた正の日記だ。
「離れで見つけた祖父の日記だよ。ここに、呪いのこと含めていろいろ書いてあったの。これは榛名さんが持っていた方がいいと思うから、受け取って」
言いながら日記を差し出すと、榛名が驚いたように目を見開いた。無言で手を伸ばして日記を受け取り、その表紙に書かれた『阿墨正』の名前をじっと見つめる。
「祖父は、皆んなのことを守ってくれたんだよ。きっと祖父だって、榛名さんには生きていてほしいと思ってるよ」
「……」
歌留多の言葉を聞いた榛名は日記を見つめたまま静かに目を閉じると、何も言わない代わりに、その横顔に微かな微笑みを浮かべた。
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