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「遅かったね」
舞香が言うと、母親は申し訳なさそうに両手を合わせた。
「ごめんごめん。家出ようとしたら、お隣の松野さんが来ちゃって」
松野さんはこの界隈で有名な"おしゃべりおばあちゃん"だ。その名前を聞いてしまうと、それなら仕方ないと納得してしまう魔法の名前だった。
「ってか、さっきの犬飼くん? かなりイケメンに成長してたじゃない!」
「そ、そうかな……?」
とりあえず相槌を打ってみたが、実のところ、舞香の心臓は驚くほど早く打ちつけていた。
確かに高校生の頃より洗練されていて、モテるだろうとは思った。だってあの頃は野球部に所属していたから、どこからどう見ても野球部員の坊主頭だったから。
ただ彼があの頃よりもカッコ良くなっていたことだけが原因じゃなくて、二人にしかわからないあの思い出があるから。
車が家に向かって走り始めると、灯が灯るアーケードの下に商店街の入口が見えた。その手前の広場には、今年もクリスマスツリーが飾られている。と言っても、元々植っていた木に商店街の人たちが飾り付けをしたもので、地域の人々にとっては馴染みのあるツリーとなっていた。
キラキラと光を放つオーナメントの数々。その中でさりげなく存在感を放っていたのがジンジャークッキーの人形で、それを見るたびにあの事が思い出されるのだ。
あれは高校三年生の二学期の終業式後。駅を出た舞香は、このツリーを見上げていた犬飼と目があったのだ。
バスの時間までまだ少しある。そんな思いで彼に近寄っていく。
『なぁ、ずっと気になってたんだけど、これって何?』
犬飼が指を刺したのはジンジャークッキーの形のオーナメントだった。
『あぁ、ジンジャークッキーでしょ?』
『えっ、これってクッキーなの⁈ 知らなかったー。ってかさ、ジンジャーってなんだ?』
『英語で"生姜"のことじゃない。受験、大丈夫なの?』
『俺? 推薦きまってるから大丈夫。じゃあ生姜のクッキーってこと?』
『まぁそうだね』
『原田は食べたことある?』
『あるよ。ママが作るから、一緒に作ったこともあるもん』
『マジ⁈ 料理上手な母親がいると得だよなぁ』
『確かにね。おかげで私は料理の腕が上がらないけど』
『なんだよ、それ! でもどんなのか食べてみたいなぁ』
それは遠回しに食べたいと言われているのだろうか。舞香は眉間に皺を寄せながら首を傾げた。
舞香にとって犬飼は中学の頃から知っている、いわば一番気の合う男子だった。今までもこういう会話をしたことはあるが、こんな遠回しに言われたのは初めてだった。
『じゃあ自分で作れば?』
『作る⁈ 俺が⁈』
『そうそう。案外簡単かもしれないよ。あっ、バス来たから行くね』
『お、おぉ、じゃあな』
ちょうどロータリーにバスが入るのを見つけた舞香は、そのままバス停へと駆け出したのだ。
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