ヒロイン、貴族になる

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ヒロイン、貴族になる

「────アンネリーゼッ! その指輪はわたくしが殿下からいただいたものよ。返しなさい」  歴史を感じる煌びやかな玄関ホールに似合わない、絹を切り裂く悲鳴が響いた。  叫び声の主は豪奢な金の髪が乱れることも構わず、必死の形相で先を歩いていた少女を睨みつけた。    数拍後。  アンネリーゼと呼ばれた少女が、ゆったりともったいぶって振り向いた。 「お姉様?」  桃色の髪の少女は新緑の瞳をパチリと瞬く。    ”仕草の一つ一つ、頭の先から影に至るまでなんと愛らしいことか”少女をとりまく男たちは口々にそう褒めそやした。  事実、なんと愛らしいことか。きょとんとした顔は愛玩動物かのように無邪気でさえある。  だがしかし。今はその仕草には違和感がある。  少女の態度は、取り乱した様子の令嬢とは対照的で落ち着き払ってさえいたからだ。  少女の庇護欲をそそる華奢な体躯にあった小ぶりな手にあったのは、それはそれは見事な指輪。  まさしく”それ”が、争いの種となったものだった。  指輪の輝きを認めると同時に、令嬢の金の髪が逆立つように揺れた。  背丈も体つきも大人びた女性らしい曲線を描く令嬢は、少女とは何もかもが正反対だった。  高位貴族としての矜持、重圧、責任。どれも持たない小さな手が、なんだか今日に限って許せないのだと侍女に弱音を吐いたことを令嬢は思い出していた。  令嬢は自身の手を蜘蛛のような手だと自虐的に言うこともあった。そんな令嬢の手を温め、指輪を贈った婚約者の記憶が令嬢の表情を歪ませる。 「言うことを聞きなさい!!」 「……そんなに怖いお顔をしないでくださいませ」  もうあと一歩で届くという時に、令嬢の手が空を切った。  令嬢の睨み上げるような視線を受けた少女の新緑の瞳が、蠱惑的に細められたことに気付いた者は他にいるだろうか。 「この宝石はお姉様に似合わないのですから、いいじゃない」  少女の目の前に立つ金の髪の令嬢には、ありありとその様が見えた。  この少女の振る舞いは無邪気で、周囲に甘え、衝動的だ。それすらも愛らしいと言ったのは誰だったか。  令嬢の目に少女の本質は愛玩動物なんてものには見えていなかった。例えれば狡猾な蛇なのだ。油断すれば一飲みにされる。もちろん蜘蛛も。  小さく囁かれた言葉が耳に入ったのはきっと近くに立つ令嬢だけ。  しかし、令嬢は少女の挑発には乗ってこない。  生まれながらにして高位貴族の令嬢である彼女は、怒りを内に押し隠した。身に余るほどの怒りに、逆に冷静さを取り戻したのだ。 「アンネリーゼ、今なら許します。お父様にも、ユリウス様にも言いません。今すぐ、それをわたくしに返しなさい。アンネリーゼ・シュベルト」  その堂々とした姿はまさしく王族の婚約者という出で立ちで、圧倒されるような力があった。 「いやよ。私、これが気に入ったの。……だから、」  しかし、少女の瞳には宝石しか映っていない。  うっとりとした様子で頬を寄せ、視線をドロリと流す。 「この殿下からのプレゼントを、どうかこの可愛い妹にくださいな?」  その表情の、仕草の愛らしいこと。  しかし、これは金の髪の令嬢の超えてはならない一線だった。 「あなたって子は……お父様や皆さまから愛されるだけでは足りないというの!? わたくしから婚約者まで奪おうとするなんて……!」  令嬢の手が少女の方へと伸ばされる。  しかし、二人のうち片方だけが運命の手の隙間から零れ落ちていくように  豪奢なドレスが花のように舞い、花弁のように  揺れ、落ちた。    階段から滑り落ちた身体がふわりと浮く。   誰の手も間に合わない。  手を伸ばす令嬢の指先は、奈落の底へ落ち行く少女には届かない。  上質なベルベットのような手触りの桃色の髪が、ふわりと浮かぶ。  その溺れるような髪の中で、少女は不敵に笑った。
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