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「なぜ、と聞いたのよ。答えて」
妻は冷たい目で男を見下ろしていた。
だが目の奥には、あの少し傷ついたような顔をした幼馴染がいた。
妻は少女を見るとき、少し傷ついたような顔をすることに男は気付いていた。
あの日のような顔を見せる妻が心配だった。
それが決定的になったのは公爵家から来た手紙の内容だった。
公爵家当主の奥方が儚くなったという知らせと、サルージ男爵家をとりまとめる宗家である公爵家に少女共々顔を出すようにということだった。
アリア・サルージが帰郷してから、ほどなくして妻を迎えた現公爵は実子が二人いたはずだ。
まさか妻に母親代わりでもさせるのかと、目の前が暗くなる思いだった。
だから。
男は妻に何も言わず、汚点を目の届かないところへやってしまおうと考えた。
公爵家と、ただ一つの縁をもつ少女を。
男爵家が経営している商会から商人の繋がりを辿り、後ろ暗いツテに当たるのは容易だった。
公爵家との縁を切ってしまえばよいのだと男は思った。
妻を悩ませる存在をどこかにやってしまって、元に戻せばよいのだと。
しかし、それは崩壊した。
奴隷商人のアジトで捕縛された状態で発見された男は重要参考人として保護されたが、この待遇は公爵家が手を回したのだろうと男は気付いていた。
あの男にまた隙を与えたのだ。
”また”妻を奪われる隙を。
男は手から幸せがこぼれていくような感覚を覚えた。
積み重ねた信頼も、時間も、想い出も。全てが指の隙間から落ちていくのだ。
それを保つ力は、もう男には無かった。
諦めに近い。
どれだけ望んでも妻は飛び立つのだ。
そういえば。自由気ままに飛んで、ふらりと自分の元で羽根を休める小鳥のような幼馴染が好きだったのだと幼い想い出が男の瞼の裏に過る。
男が口を開いたと同時だった。
「────ベンお父さま、そこで遠慮している場合ではないですよ。アリアお母さまには押して押して、更にもう一押しが必要です」
緊迫した空気を壊す、まだ幼い少女の声が聞こえた。
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