1.源典侍登場

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1.源典侍登場

光源氏は『源氏物語』から飛び出して、源氏神社なるものを建立し、現在の日本の女性たちのために心の癒しを与える使命をおびて、現生で過ごしている。一緒に生活しているのは物語の中でも『笑われ役』である近江の君である。お互い喧嘩しながらでも仲良く過ごしている。(トムとジェリーか・・・) さて、『笑われ役』はもう二人いる。暗闇の中で契って、明るい所で見てみると醜女だった末摘花、そしてもう一人が源典侍(げんのないしのすけ)という女性が物語に登場している。二十歳にもならなかった頃の光源氏と57・8歳であった源典侍は一時期付き合っていたのだった。 源典侍はどうしても源氏と同じ時を過ごしたいと天照大御神の大おばあさまに訴えてきたという。 「ほんなら、わては物語の中に戻らさせてもらいます。」 近江の君は今日もトイレの蓋を閉めた、閉めないで源氏と喧嘩してしまったので、ぶうたれていた。だいたい源氏は近江の君のタイプではない。美しいだけではだめなのだ。若くなければ。そう源氏の息子、夕霧の大将のように。 近江の君は『源氏物語』を読み返す。 「典侍はんって、物語ではさんざん馬鹿にされてはるようどしたけど、今の日本でみんなが憧れる安定の国家公務員じゃおまへんか。60歳近くになっても帝はんに仕えてはったって、すごいお人どすなあ。」 近江の君は感に堪えないような声を出す。 「ずいぶん年かさのお人どすが、宮中ではなくてはならないお人だったみたいどすなあ。」 帝の秘書、尚侍という役につきたかった近江の君は心底羨ましい声を出した。周りからはずいぶん、年のくせに色恋沙汰に夢中になって、ぶざまだのみっともないと陰口を叩かれていたようであるが、本人が気にしなければ全然OKなのではなかろうか。 しかも帝のお髪上げをしたり、琵琶の名手で男たちにまじって、管弦の演奏会にはひっぱりだこだったとか。スキルが高い。 源典侍の琵琶の音にひかれて源氏はついつい『お泊り』をしてしまったという。それに対していたずらをしかけたのが、近江の君の父、当時の頭中将であった。ライバルでも親友でもある光源氏が心惹かれた女性ということで、自分も『どれどれ』と興味が湧いて、こちらも深い仲になってしまった。 そして源氏の君と典侍との密会に踏み込んで、恋愛においては秘密主義者である源氏をとっちめてやろうとしたのであった。 「うちのお父さんも若い頃はずいぶん遊びはったらしいどすな。ま、そのせいでうちが産まれわけどす。」 近江の君の母親は身分が低い。ほんの遊びのつもりで関係を持ち、娘が産まれたとも知らず、長い間ほうっておかれたのであった。認知はもちろん、養育費ももらっていない。内大臣であった頃、宮中に妃として入内させる手ごろな娘がいなかったために、四方八方さがさせて引き取ったのであった。 源氏は近江の君とは色恋がまったくないので、一緒に暮らしても何の問題はない。しかし源典侍とは話は別であった。自分にその気がなくても、相手は自分を熱愛しているのであった。現生で再会したらえらいことになることは間違いなし、である。 源氏は近江の君をなだめ、これもあんさんに素敵な淑女になって欲しと思って言うてますんや、と言い、源典侍がやってきて一緒に暮らすことは断固阻止したかった。 「まあ、一緒に住みたいなんで思っておりませんでしたわよ。」 目の前に源典侍が二人を訪ねてやってきた。今風に髪を短くカットして、美しい銀髪にしていてなかなかカッコいい。 「昔の女性は白髪が増える頃には死んでしまうか、出家して尼になってしまうかですけど、今の時代は髪への技術が進んでいてびっくりしましたわ。」 目の前にいる源典侍は源氏と深い関係になった、57歳頃の姿である。付き合っていた頃の源典侍は目が落ちくぼんでいて、厚化粧をしていて、髪もかもじ(当時のカツラ)で白髪をうまく隠してはいたが、ババアが無駄な抵抗をしていると若い女房(女官)から、陰でバカにされていた。 しかし今時のファッションをしていると、おしゃれなマダムにしか見えなかった。平安時代はまったく髪型はワンパターンしかないので、髪質に恵まれている人しか似合わない。その点、現在はたとえ髪にクセがつきやすくとも、美容技術が進んでいるので、そういった悩みを解決してくれる。 物語の中で近江の君と源典侍は顔を合わせたことがない。今回が初対面である。 近江の君は源典侍に好感を持った。しゃべり方がおっとりとしていて品がある。ちゃんとお土産も買って来てくれていた。 期限付きにこの世にやって来たそうで、半年もすれば物語の中に帰るという。 「しっかし、こんな暑い夏にやってこんでもよかったんちゃいまっか?」 今は7月の中旬であった。 天照大御神の大おばあさまは秋にでもとおっしゃったらしいが、源典侍が一刻も早く源氏に再会したいと無理を言ったそうなのだ。 「物語の中にいると・・・本当同じところをぐるぐる廻るだけでつまりませんわ。でも現生に過ごすことができるのであれば、また新しい展開があるかと思って楽しみにしておりますのよ。」 源氏はクーラーをガンガン効かせて涼んでいる。外は35℃に迫る勢いの暑さである。朝早くから神社の敷石に水をまいたが、すっかり乾いている。日が落ちたらおいとまします、と源典侍は言い、源氏とは昔話に花をさかせ、近江の君は宮中での経験に興味があったのでいろいろ質問をしていた。色恋抜きであったら、源典侍は話をしていて本当に楽しい相手であった。 「そや、典侍はん、あんさんどこに住んでますんや?」と源氏が肝心のことを聞いた。 期間限定なので、旅行者用のカプセルホテルに滞在しているという。寝るところは狭いが、共同スペースもあるし、料理もできるし、街に出かければ面白いものがたくさんあるので退屈はしないという。 それが・・・と源典侍は続ける。実は就職しましたの、と二人が仰天するようなことを言った。 源典侍は髪に手をやって。自分の髪をセットしてくれた美容院で働くことになったという。 カプセルホテルの近くの美容院にふらりと入ったのだが、予約がいるということは知らなかった。流行っているのかどうかもわからないが、そこの店長は一人で経営をしていたらしい。数時間後に来てくれたら、大丈夫ということで、出直したという。 長い髪をばっさり切ってもらって、今風に染めてもらい、お上手ですねえと愛想を言った。店長は美容師としては腕は確かなのだが、かなりおどおどした態度で接客をする。なかなかお客さんと上手く喋れなくて・・・と「すいません。」と何度も言われたらしい。 源典侍は人懐こい性格であるし、年配者であるということで、店長は正直な気持ちを打ち明けることができたようだ。 聞けば一人で店をやっているらしいが、人手が足りなくて困っているらしい。雇われていた頃のお店で常連になってくれたお客さんが来てくれるとはいうものの、新規のお客さんをつかまえることが出来ずに悩んでいる。誰か雇い入れたいと思っていても、人見知りがひどいので、面接をするのもいやらしい。 「人見知りなのによう客商売しはりますなあ。」源氏と近江の君が同時に声を出した。しかし、こうしたタイプの美容師でも腕は確からしかった。 源典侍が話を続ける。 せめてシャンプーだけでもしてくれる人が来てくれたらいいんですけどね・・・と店長はぼやいた。 「もしかして、私じゃどないでっしゃろかって言うたんどすか?」 源典侍は頷いた。 「同業者は同業者のことがよくわかるのねえ。私は帝のお髪上げをさせてもらったけど、いつもきれいにしてくれてありがとうって言われていたわ。大事な行事がある前は必ず私がするようの仰せつかっていたし。宮中を去る時は、何人もの後輩たちが、その技の伝授をしてくださいって頼まれたくらいだし。」 「しかし、あんさん平安時代と現在じゃ、技術も洗髪もやり方が違いまっしゃろ?平安時代は髪洗うのも、米のとぎ汁で櫛でといていくっていうやり方どすえ。」 「あら、逆に今の方がずいぶん楽になりましたわ。皆さん髪はずいぶん短いですし。いい匂いのシャンプーで髪を洗って湯で流して、トリートメントで整えるなんて、誰でもできるようになって、すばらしいと思います。」 しかし誰でも出来ることであっても、技術の差は出てくるものだ。源典侍はかなり強い力でシャンプーをするものだから、『痛い』と言われることが多々あるらしい。しかし『申し訳ございません。ゆるめますね。』とあやまると、『いえ、今くらいでお願い。』と頼む人がほとんどらしい。特に年配の頭の皮が硬くなっている女性たちからは好評だそうである。 「なるほどなあ。」 近江の君は興味深々である。初めて潜入捜査した会社では仕事をがっちりやったわけではないので、こうした専門的な仕事の内情を聞けて面白かった。 源典侍は少し首をかしげて、それが、今気になるお客さんが一人いるんですよ。何とかしてあげたいと思っても何の力にもなって上げれなくてねえ。とあるお客さんの話を始めた。   
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