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前書キ
釈迦は意地が悪い。
かつての戦争を経験した婆さんがいたのなら、なんて罰当たりだと私を罵るに違いない。
かの、芥川龍之介の蜘蛛の糸に登場する釈迦は“神様の意地悪”どころの話ではない。
あれを、教訓などと言うボウズたちの正気さを私は疑う。
犍陀多がどういう内面を持っていたのかは知らないが、私は彼と同じ目に遭ったことがある。
釈迦という存在は実に無慈悲だ、釈迦だけではない。宗教という教えすべてに共通して信仰心というものを試される。
彼らは信仰度合いによって救うか救わないか決めるというのだ。
そんなもの、私には微塵もない。
それなら、糸を切られたところで文句も言えまい、と他人は思うことだろう。
だが、そのつかんだ糸の切れた瞬間の、絶望というのは筆舌に尽くしがたい。
怒りも悔しさも悲しみも、憂いや不安すべてを引っ提げて真っ逆さまに落ちていくのだ。
人は必ず、一度は悪党になる。
善悪の基礎を知らないために必ず、人は落ちるようにこの世界はできている。
絶望、挫折、裏切り・・・・似たような言葉はいくつもあるが、大小の差はあれど何度も繰り返し経験する物事なのだ。
だが、通常はそこまで意識することはない、修行僧であっても外に答えを求めているうちはまだまだ浅い。
宗教は異なるが、キリストの受難に近しい苦痛を感じるようになってからが本番だと言う。
その想像を絶する痛みを、体感した者は果たしてどれだけいるのだろうか。
そこで私は犍陀多の受難について、掘り下げてみる。
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