第17話

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第17話

 徐々に夢から覚めた栗原は背中の草の感触で一瞬、地球の広場にいるような錯覚に陥ったが目を開けてオレンジがかった色の雲を見るとすぐにジュシスにいる現実に引き戻された。  今見た地球の夢で由紀子と会っていた気がした栗原は、その姿をもう1度見ようと再び目を閉じたがすでにその記憶は瞼の裏から消えてなくなっていた。  栗原はがっかりしながら起き上がると寝ぼけた頭で登山道を下り、自宅に辿り着くと縁側から家に上がってリビングのソファに腰掛ける。  テーブルに置かれたままずっと使われていない古いタブレットを見詰めて、23年前に探し出したあの施設の事を考え始めた。  脳だけになってしまった由紀子に地下の施設で会った事を話すとシニアとスリムは全てを打ち明けた。  由起子はジュシスの人を地球の攻撃から守るために可能な限り長く生きたいと望み、2人に相談する事なくここの高度な科学技術を使ってそれを実現してしまったのだと話した。  それは、脳以外の全てを自ら捨て、生命維持装置から純粋な栄養だけを得て生きるという事で、身体の各部分が老化してその影響が脳に及んでしまうのを防ぐ為だった。  あの洞窟も由紀子が長く生き続けられるようにする為に造られた施設で脳から発生する活性酸素をマイナスイオンで中和するための空間なのだとスリムが説明してくれた。  そして、中和するのに十分な数のマイナスイオンを発生させるには大量の水が必要で常に海水を汲み上げているのだと話し、森の中で見つけたあの排水管は電気的に分解してイオンを発生させた処理水を再び海に返す為のものだった。  また、脳から無数に出ていた細い管のようなものは栄養を運ぶ為のものと神経の代わりとなる肉眼では見えない細さの配線の束で、由起子はあの木を通じて全ての動植物とコミュニケーション出来るのだという事だった。  推定ではあるがそうやって脳だけになり、細胞の酸化を抑制すれば地球人でも300年以上の寿命が得られる筈だと2人は話した。  自分はあの時何をしたかったんだろうか、由起子を探そうとした事や会いたいと思った事が正しかったのかと、あれからずっと自分に問い続けていた。  会ってしまえば、話す事も出来なくなってしまうと知っていても探し続けただろうか。  もし、探さなければ今でも毎日話すことが出来ただろうし由起子を1人にさせずに済んだと思え、75歳になった今でもその時にどうするべきだったのかその答えは出ていなかった。  栗原は重そうな腰を上げるとアトリエに向かった。  そのアトリエにはもうすぐ完成する改造中の軽トラックがある。  スリムの協力を得ながら20年間、コツコツやってきた改造をついに終わらせる日が来たが栗原の心は複雑な思いに満たされていた。  荷台に酸素発生装置と純水のタンクが積まれ、屋根の上には荷物運搬用に使っていたカプセルがその軽トラを吊り下げるように取り付けられている。  車内は全て内装が剥がされてそこから外気が通じる穴や隙間は全てシール材で埋められ、残るはドアの部分だけだった。  運転席のドアは乗り降りで開閉してもしっかり塞がれるようにと宇宙船と同じ素材のパッキンが既に取り付けられていたから助手席のドアさえシールすれば全ての作業が完了する。  狭い車内で身体を縮めて作業していた栗原が荒くなった息を整えていると、そこへシニアとスリムがやってきた。 「いよいよ完成ですね」スリムがドアの開いている窓から声を掛けた。 「ええ。スリムさんが酸素発生装置などを作ってくれたので立派な軽トラになりました。カプセルの動力も大きくしてくれたお陰で、地球まで1年で行けるようになりましたし…」栗原が笑顔を見せて答えると、 「寂しくなります。2年も親友に会えないなんて…」スリムが静かに言った。 「僕はもう75歳になり、この通り髪も白くなった。あなた達のように長寿ではないですから、天国へ行く前に地球へ行かないとなりません」栗原が冗談めかしてそう言い、笑顔を見せるとシニアとスリムも笑った。 「いつ出発するんです?」シニアが訊くと、 「今夜の予定です。2年間、2人とはお別れという事になりますね」敢えて明るく言った栗原だったがその後すぐに真面目な顔になり、 「ここへ来てから、2人は僕にとってもずっと親友だったから会えなくなるのが辛いです…。沢山友情をもらったし、こうして見送りに来てくれた…」2人を見て一筋の涙を流すと、 「どうしても行くんですね…」スリムがその目に涙を溜めて言った。  栗原は何も言わずに頷いてそれに答える。  シニアとスリムは頭の中で、栗原と会えるのはこれが最後になってしまうかも知れないと思っていた。  カプセルの自動操縦が栗原を地球へ導いてくれる事に疑いはなかったが宇宙では何が起こるかわからないし、宇宙船でなく改造した軽トラックでは論理的に不可能でないとわかっているだけで実証されておらず、2人はそれが心配だった。  20年前、タブレットを通じて由起子と話す事が出来なくなった栗原は生きる目的を失い、家に籠ったまま誰にも会おうとしなくなってしまった。  そんな栗原を励まそうとシニアとスリムが度々訪れ、地球の思い出話をするようになると自分が死ぬ前に島の広場がどうなったのか見てみたいと言い出した。  宇宙船で迂闊に近づけば生き残った地球人や破壊されずに残った自動迎撃システムから攻撃を受ける可能性があり危険だと告げると、栗原は荷物運搬用のカプセルを取り付けた軽トラで地球に行こうと自ら改造を始めてしまった。  軽トラックを改造したもので宇宙を旅するなんてあり得ないと説得を続けたが、それに取り組む栗原が生き生きしているのを見て嬉しくなり、2人は親友として協力する事になってしまったのだ。 「私とスリムだと思ってこれを持っていてください…。そして、必ず戻ってきてください。信じて待っています」シニアが地球のアトリエで創った粘土のジュシスと地球を差し出し、大粒の涙を1つこぼした。 栗原は2人と抱き合った後に握手を交わし、 「由紀子の事、よろしくお願いします」と深く頭を下げた。  顔を見たら旅立てなくなってしまうと言い、今夜の見送りを断ると2人は栗原の顔を黙って見つめた後、ゆっくり背中を向けて寂しそうに去っていった。  夕日が海に沈みかけて辺りがジュシスの夕焼け色、本当の赤に染まると栗原は軽トラをアトリエから庭へ押し出した。  運転席へ乗り込むと荷物の確認や酸素発生装置の動作チェックをしていく。  ダッシュボードにはタブレット型コンピューターが据え付けられ、軽トラの上に取り付けたカプセルに無線を使って目的地の座標を送れるようになっている。  カプセルに付けられたダークマターの動力が小型なので地球まで1年間の旅になる予定だが食料は一切積み込まずに非常事態用の栄養サプリメントを少しだけ携帯し、冬眠薬を服用して行程の全てを仮死状態で移動するつもりだ。  全てのチェックを終えると栗原は車から出て自宅に戻り、由起子が使っていた部屋のドアをそっと開けた。  地球の自宅と見た目が同じというだけで実際そこにいたことはなかったが、すぐに座っている由紀子の姿が蘇ってきた。  開かれたノートパソコンの前に座り、こちらを向いて笑う由紀子に 「僕はずっと、好きな事している君が好きだった。だから、身体を捨ててしまい、あんな姿になっても責めない…。君がそうしたいならそれでいい…」そう言う栗原の目からは涙が溢れた。 「君が僕にこの島を与え、ここだけで暮らすように仕向けた理由もわかっているよ。シニアとスリム以外の人が感情を持ってしまえばやがてそれがジュシス全体に広がり、地球のようになってしまうかも知れないからね…」 「ジュシスの人達は君が言っていたように宇宙における希望だ。今は僕にもよくわかるんだ」そう話すと由紀子の部屋をゆっくり見回し、「君は僕がここで何をしているか分かっていた筈なのに邪魔をせず、自由にさせてくれた。陶芸をやると言ってあの島へ移住した時と同じように…」 「今日、僕は地球に帰るけど悲しまないで欲しい…。島と東京で離れて暮らしていたのがジュシスと地球になるだけだと…、そう思って許して欲しい…」 「僕は幸せだった。地球にいる時もジュシスでも…。ずっと君の近くにいられなくてごめん」その言葉を最後に部屋を出た栗原はそっとドアを閉め、「さようなら…」静かな声で言い、涙を拭いた。  すでに夕日が沈んで暗くなり始めた庭で再び軽トラに乗り込んだ栗原はハンドルの右側にあるレバーを捻ってスモールライトを点けた。  ダッシュボードのタブレットで地球の座標をカプセルに送信すると、その画面に『確認』の赤いボタンが浮かんで点滅する。  栗原はそのまま顔を横に向け、助手席の窓越しに見える自宅を少しの間見つめた後、決心したようにそのボタン押した。  何の音もたてず、小さなライトを点けた軽トラはゆっくり上昇していき、暗い夜空に吸い込まれるようにどんどん小さくなっていった。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  『横井農園』と荷台に書かれた軽トラが地球に近づき、その車内で栗原は目を覚ました。  米粒くらいの大きさで見えてきた地球にじっと目を凝らしていると、島の船着き場で由紀子が乗るフェリーを待ちながら海を見つめていた時と同じ感覚になり、もうすぐ会えるような気がして嬉しくなった。  その小さな米粒がビー玉位の大さになると地球が緑と青の2色に見え、 「茶色じゃない…のか?」栗原は驚いて呟く。  さらに大きくなるとその景色はまるで地球を脱出してジュシスに着いた時のように見え、戻ってしまったと錯覚する程その姿が似ていた。  やがて、その地球が軽トラックの窓に入りきらない大きさになるとそれを見詰めていた栗原の目からは涙が溢れ出す。  スリムが付けてくれた放射能探知機が警報を鳴らし、座標を「地球」としか指定していなかった軽トラックはそこで動きを止めた。  栗原は何もせずにただ、涙で滲んだ新しい地球の姿を眺めていた。  破壊し尽くされ、全ての生命が絶滅したと思っていた地球は生まれ変わっていたのだ。  そこはジュシスにあるような豊かな森が広がり、鳥が飛び動物が走り回る楽園に変わっていた。  放射能に汚染されてはいたが生物の逞しさはそれを克服し、新たな自然が破壊された人工物を覆い隠して美しい豊かな地球へと変えつつあった。  支配を続けた人間の絶滅が地球の自然に本来の繁栄をもたらしたその光景は栗原の目に、嬉しくもあり辛くもある複雑なものに映っていた。  ここに来るまでは何もかもが破壊し尽くされ、全ての生命が亡びた地球に降り立って放射能に侵されながら死ぬつもりだったが誰も汚す者のないその美しい姿を目の当たりにして、人間がいかに自然の破壊者だったのかを栗原は改めて思い知った。  地球人だからとここを心の拠り所として1年間旅して来たが自分達人間がいかに自然を蔑ろにして来たかを突き付けられ、そこに戻るべきではないと悟らされてしまったのだ。  帰る場所だけでなく死に場所まで失ってしまった栗原だったがそれでも地球が逞しくて美しい事に変わりはなく、その事を心から喜んでいた。  そして地球が持つ本当の美しさを見て、ジュシスの人達が守ろうとした自然がどんなものかを今、ようやく理解出来た気がした。  栗原はタブレットを手に取り、地球で死ぬ時に聞こうと思って用意した曲を絶滅した地球人の鎮魂の為に流すことにした。  その『夢で見た星』という曲を聴きながら目を閉じると昔、地球の島でジュニアが鎮魂の為に奏でたその光景が遠い記憶の中から瞼の裏に蘇って見えた。  そのまま膝を曲げ、軽トラの狭いシートで横になると地球での暮らしや景色が次々に思い出として蘇ってくる。  東京でウェブデザイナーとして働いていたことや妻と出会った大学のこと、陶芸家として島へ移住して再出発したことなどが幼い頃にベッドの中で見た夢のように思えた。  そして、シニア、スリム、ジュニアの3人と出会った事、由紀子との島での暮らしや風景が遠い昔のものに感じられ、その全てが懐かしくて心が安らいだ。  栗原は瞼の裏に蘇った思い出が消え去ると目を開けてシートから身体を起こし、フロントウインドー越しの宇宙空間を見詰めてこれからどこに向かえば良いのかと考え始めた。  どこまでも永遠と続く真っ黒な空間を見ている内に、たとえ自分が100年生きようがジュシス人のように200年の寿命を得ようが壮大な宇宙の営みからすれば瞬きをしただけで見逃してしまうくらいのものでしかないと思え、数百万年という人類の長い歴史ですら取るに足らない事なのだと感じていた。  そして、その壮大な宇宙ですらいつかスリムが教えてくれたように、やがて縮小に転じれば何処かにある強力な引力によってあらゆる星と銀河を巻き込みながら1つのとてつもない重量の固まりになってしまうのだから、1人の人間という砂粒にも満たない存在は宇宙のどこにいても同じだと思えた。  たとえどんなに由起子と離れていてもいつかはこの軽トラックもろ共、地球やジュシス、その他の全ての物質と一体になってしまう運命なのだ。  その後、様々なものが一体となって出来た固まりを新しい宇宙へと変える為のビッグバンが分子の形にまで引き裂けば全ての出来事が跡形もない過去となって消え去るのだから、もう何かを悩む必要も後悔する必要もないと思った。  栗原はタブレットで入力できる一番遠い星を探し、新たな目的地としてカプセルに送信する。 『確認』ボタンの上に今まで見たことの無い『座標を再確認してください』という文字が現れ、到着日数を表す数字の「1」に続く「0」が画面一杯に並んだ。  その日数が1億年の1億倍なのかどうか数える事もその桁の呼び方すらわからなかったがそんな事はどうでも良く、栗原はとにかく宇宙の一番端まで行きたかった。 『確認』ボタンを押すと再び『座標を再確認してください』という文字が現れたがそれを3回繰り返したところで『送信完了』と表示されて軽トラックが動き始めた。  栗原は軽トラックが向きを変えて進み始めたのを確認すると助手席のダッシュボードから何かを取り出し、再び膝を曲げてシートに仰向けになった。  その手はジュシスを旅立つ日にシニアがくれた、粘土の地球とジュシスを握りしめていた。  右手の中の地球と左手のジュシスを胸の上で1つに合わせると由紀子と地球で暮らした日々の、その夢の続きを見ようと静かに目を閉じた。                                                           終わり。
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