第6話

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第6話

 もう、スタンドまで行く体力はなくなっていたが車が使えないと困ると思った栗原は半分程の距離にある桟橋の売店に向かって歩き出した。  そこで店主のおばあさんからガソリンスタンドの連絡先を教えて貰い、自宅まで配達をお願いしようと考えたのだ。  売店まで行き、店主のおばあさんに事情を話すと笑いながらすぐにどこかへ電話を繋ぎ、相手に先ずはここへ寄るようにと告げて栗原が自宅に歩いて帰らずに済むように気を利かせてくれたようだった。 「色々とお気遣い頂き、ありがとうございます」電話の内容を聞いていた栗原が丁寧に礼を言うと、 「あんた律儀だねぇ。ここの人は何してやっても礼なんか言わないから、ありがとうなんて久しぶりに訊いたよ」そう言って声を出して笑った。  ガソリンスタンドの人が来るまで少し時間があると思った栗原は店頭に置かれた冷蔵庫からアイスクリームを1つ取り出した。  パンが入ったガラスケース越しに座るおばあさんへ代金を渡すと、 「あんたの奥さん、設計の仕事をしてるって言ってたけど奇麗な人だねえ。都会の女性はキラキラしているね」思い出したように言い、 「そこに椅子があるから、好きなとこへ座ってお食べ」と3つ置かれた丸椅子の1つを栗原に勧めた。  椅子はここへ来た人が店主のおばあさんと雑談する為に置かれているのか、そこに座るとおばあさんと向かい合うようになった。  笑顔でじっと見つめているおばあさんと何か話すことはないかとアイスを食べながら話題を探す栗原はふと、カラス天狗の事を思い出す。  その話なら島の人は皆、知っているだろうと切り出してみた。 「先日、カラス天狗の伝説を横井さんが教えてくれました。山の守り神だそうですね」栗原がそう話すとすぐに、 「ああ、そうだよ。あたしゃ、会ったことがあるんだ。皆は怖がってるけど、そんなこたぁないんだよ」と、想像もしなかった返事が返ってきた。 「え、会ったことがあるんですか?」驚いた栗原が思わず前のめりになって訊ねると、 「子供の頃に何度かね…。話したこともあるけど、この歳になったらすっかり忘れちまったよ。でも、本当に会ったんだ…、それだけは覚えているんだよ」  おばあさんはそう話すと少女のように微笑んだ。  栗原はそのカラス天狗があの3人と同じ姿だったか確かめたかったが他人に明かせば彼らが2度と来なくなってしまうかも知れないと思い、それ以上訊くのは止めにした。  店の外で「プッ」っとクラクションが短く鳴ったのを聞き、栗原が振り返ると2トン車のタンクローリーが停まっている。  捻った身体を戻しておばあさんを見ると、 「ほら、来たよ。お待ちかねのガソリンがね」そう言って微笑み、「ヨシ坊、よろしく頼みますよ!」と大きな声を掛けた。  運転席の若い男性はそれが聞こえたのか、小さく頭を下げながら返事の代わりに手を上げる。 「お世話になりました。では、失礼します」栗原はおばあさんに礼を言うと急いで外に出た。 トラックの運転席で被ったキャップのつばに手をやって頭を下げるその人に、 「栗原と申します。急なお願いで申し訳ありません」お辞儀をしながら言うと若い男性が 「じゃ、行きますか?」と反対側のドアを手の平で示した。  助手席に乗った栗原が自宅の場所を教えてから、 「車があるのにガソリンを届けてもらうことになるとは…」と苦笑いして言ったが、 「いえ、船に入れる軽油とかボイラー用の灯油をあちこちに運んでるので全然問題ないっすよ」少し照れたように応えて、「佐竹義之です。みんな『ヨシ坊』って言うので、そう呼んでください。誰かに言う時も『佐竹』では僕だとすぐに分かってもらえないっすから…」と横の栗原をみて親しみのある笑顔を見せた。 「ヨシ坊さんはこの島では見た初めての若い人ですよ」栗原が言うと佐竹が声を出して笑い、 「もう30だから若いって言う程でもないっすよ。この島に若い人が少ないからいまだに小学校時代のあだ名で呼ばれてますけど…」と照れ臭そうに言った後、「栗原さんって東京から、…でしたっけ?」少し遠慮しながら訊いてきた。 「ええ、陶芸をやるつもりでここへ越して来ました。軽トラは先日、横井さんから譲ってもらったばかりなんです」そう言うとすぐに、 「息子さんがワンボックスを置いてったから、2人しかいないのに車は3台もあると言って困っていたんっす。売れてホッとしているんじゃないっすか」ヨシ坊はその事をよく知っているらしく、すぐにそう応えた。  5分程で自宅のスロープ下に到着し、置き去りにしていた軽トラにガソリンを入れてもらうと、 「この先もオイル交換や整備が必要な時はお願いします。ヨシ坊さん!」栗原は代金を渡しながらわざとあだ名にアクセントを置いて言う。  すると、佐竹はもう照れる事もなく、 「了解いーっす! ありがとうございやしたー!」と、キャップのつばに手をやって頭を下げ、トラックに乗り込むと青白い排気ガスを残して帰っていった。  宇宙人に用済みとされてしまい落ち込んでいた栗原だったが、この島で初めて若い人に会って少し元気を貰えた気がしていた。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇   久しぶりの休みを取った由起子が代々木にある設計事務所へ出社すると、朝一番にも関わらず設計部の大勢の人が疲れ切った表情でそこにいた。 「おはようございます…」訝しがりながら由紀子が声を掛けると 「はよざいやーす」と、隣の席でパソコンの画面に向かって図面を書いていた白井という同僚の男性が寝ぼけ眼で返した。 「どうしたの? 皆、今日まで休みじゃなかったの?」同じように寝ぼけ眼でパソコンに向かっている数人の仲間を見ながら由紀子が訊くと、 「いやー、連休初日に仕様変更があったと突然、部長から呼び出されて休み無しですよ…」頭を掻きながら恨めしそうに白井が言うので他の仲間を見ると皆、何故か責めるような表情を浮かべている。  プロジェクトの責任者である由起子は 「私は変更なんて聞いていないわ!」と大きな声で言い、自分のデスクに投げるようにして鞄を置くと足早に何処かへ向かった。  部長室の前まで行くと由紀子はドアをノックしながら 「おはようございます。栗原です」そう言うと返事も待たずに勢いよくドアを開き、部屋に入る。  部長のデスクの前まで行くと部長の岡本は 「栗原さん。おはようございます」とその顔をパソコンの画面から由紀子へ移し、眼鏡を上げながら怪訝な目つきで言った。 「部長、仕様変更があったのにどうして私に知らせてくれなかったんですか?」デスクに両手をついた由紀子が迫るようにすると、 「変更がある度に、あなたが反対の意見を声高に唱えるからよ。上層部の人達は栗原さんが論理やデータを武器にしていちいち食って掛かるから困っているの。そんな事に時間を取られると提出期限に間に合わなくなるから、あなた抜きで対応したというだけのことよ」  部長の岡本は話しを終えるとその顔をパソコンの画面へ戻した。 「私を責任者にしたのは理想を追求したコンセプトが良かったからではないんですか?」さらに声のボリュームを上げて由紀子が言うと部長室のドアが開き、本部長の渡辺が入って来る。  渡辺は由起子の横に立つと、 「栗原さん、あなたが知らない所で色々な政治力が働いているのです。公共性のあるプロジェクトは様々なしがらみによってオリジナルプランからかけ離れたものになるのが当たり前だし、それを受け入れないと進みません。あなたが柔軟に対応出来る人だと思ったから責任者に選んだのです」と静かに話した。  由紀子は本部長の渡辺へ向き直り、 「私は今までずっと、『最高のものは1つ』という考え方を基に常により良いものを追求してきましたし、今後もそれを変えるつもりはありません。このプロジェクトのコンセプトもその考え方を踏襲したもので全ての点で理想を追求した案だからコンペを勝ち抜いて選ばれたのだと自負しています。性能や質の劣る、より高額なものへの仕様変更はコンセプトに反するので抵抗しても当然じゃないですか」と、自分が心底から思っている事を正直にぶつけた。  それは由紀子が設計を始めた時から持ち続けたもので、理想を追求する事が建築の質を高めることに繋がり、質の高い建築が人々の暮らしや自然環境を守るのだという考えに基づいた信念のようなものだった。  だから、度々上司と衝突してもあくまで良い物を追求する為のせめぎ合いだと考えていて、由紀子はそれが悪い事だなんて少しも思っていなかった。 「栗原さん、しばらく休暇を取った方が良いと思うわ。これまで休みなく働いていたから大分お疲れのようだし、精神的にもギリギリのようね」部長の岡本がパソコンの画面を見たまま、突き放すような口調で言う。 「そうだな。ゆっくりしたいなら1ヶ月位の休暇でも許可しますよ」本部長の渡辺も頷きながらそう言った。  それを聞いた由紀子は2人にお辞儀をすると何も言わずに部長室を後にし、デスクにの上の鞄を持って会社を出た。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇   ようやく沸騰してきた鍋に栗原がそばを入れようとした時、1度も聞いたことがなかった玄関のチャイムが「ピンポーン、ピンポーン」と2回鳴り響いた。  栗原は一瞬、何の音か分からずに驚いたが、 「はーい。今、行きます!」それに気付くと大声で返事し、小走りで玄関へと急ぐ。  玄関まで行くと閉まったままのドアに向けて、 「鍵は開いてますよ、どうぞ入ってください」と言ったが開く気配はない。  訪ねて来るような人が思い浮かばないまま栗原が三和土に降りてドアを開けてみると、スーツ姿の由紀子が下を向いたまま夕日を浴びて立っていた。 「由紀子…」驚いて呟いたが由紀子が泣いているのに気付いた栗原は 「丁度良かった。今、そばを茹でている所なんだ。1人前追加、だね!」何も訊かずにそう言うと、両手で前に下げていた鞄をそっと受け取った。  由起子は顔を上げると涙も拭かずに、 「お昼も食べてないから、お腹空いちゃった…。2人前追加して」そう言って無理に笑った。  仕事で何かあったのだとすぐに想像出来たがそれには触れず昨日、由起子が置いて行った部屋着をチェストから引っ張り出して渡すと着替えている間にそばを茹で、縁側のテーブルに運んだ。  先日とは違いただ、そばを見つめたままでいる由紀子を見て、仕事とは全く関係の無い話をしたかった栗原は宇宙人の話をする事にした。 「例の宇宙人に今日、会ったんだ。彼らは由紀子に姿を見せて良いかわからずに来なかったらしい。だから、君が会いたがっている事を伝えておいたよ」そう話すと、 「じゃあ、今度は会いに来てくれるわね!」元気のなかった由紀子はそれを聞くと目を輝かせた。 「君の方が愛情をくれると言ったら僕から貰う気はなくなったのか、さっさと帰ってしまったよ。そんな事言うんじゃなかったと後悔していたんだ」  栗原が残念そうに言うと由紀子はようやく笑顔を取り戻し、 「彼らにもわかるのね、愛情をくれる人が誰だか…」わざとなのか腕を組み、真顔になって言う。 「いや、愛情がわからないから勉強したいと言ってたんだから…、そんな筈はないと思うけど…」栗原が真剣に反論するのを見て再び笑顔になり、 「心配しないで。あなたのつたない愛情もわかるように私がしっかり教えてあげるわ!」栗原の肩を叩いて慰めるように言った。  叩かれながら栗原は、由紀子に何があったのかは知らないがとにかく元気になって良かったと思っていた。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇   次の日、食料品と由紀子が必要なものを調達する為に2人は軽トラックに乗り、フェリーで本土に渡った。  島に戻ると2人で桟橋の売店に寄り、店主のおばあさんに由紀子が来た事を伝える。 「あれ、帰ったのかと思ったらもう来たのかい。嬉しいねぇ、ここが気に入ったのかね?」  おばあさんは冗談っぽく言って笑いながら、由紀子が戻ってきた事を喜んでくれた。 「今回はしばらくいるつもりですので、宜しくお願いします」  由紀子がそう言いいながらお辞儀をするのを見て、長く滞在するつもりなのと仕事で起きたのは重大な事だと栗原は初めて知った。  何があったのか知る必要があると思った栗原は軽トラックの荷物を家の中に運んだ後、自分用にした部屋を片付けている由紀子に、 「しばらくはいられるんだね」そっと声を掛けた。 「もう、どうでも良くなったの。私みたいな考えは要らないんだって」  片づけをしながら振り返らずに答えるその背中が栗原にはとても悲しそうに見えた。  栗原がどう慰めたら良いのかわからず、 「長くいられるなら、すぐに話さなくてもいいね…」それだけ言うと、 「ありがとう。頭が整理出来たら話すわね…」由紀子は力なく呟くように答えた。  その日の夕飯は本土へ買い出しに行ったお陰で魚の干物とご飯にみそ汁という、食事らしいメニューになった。  久しぶりに食べるそば以外の食事を待ちきれずにいつもより1時間も早く夕食を終え、栗原が食器を洗っているとキッチンの窓越しに見える藪に3人の宇宙人が並んで頭を出しているのに気付いた。  栗原はその3人の顔を見ながらふと、彼らの容姿を見た事のない由紀子が実際に会ったらどう感じるのだろうかと考える。  会ってみたいと言ってはいるが話しか聞いていない由紀子がどんな想像しているのか分からず、栗原は予想以上に怖がってしまったらどうしようかと心配になってきた。  すると突然、背中の方から由紀子の声がした。 「もしかして、あれが宇宙人なの?」  振り返るとキッチンの入口辺りから、同じ窓越しに藪を見つめている。  特に恐怖を感じている様子はなく少し前に屈みようにして、茂みから顔を出した動物でも見ているような眼差しだった。 「あなたが話してくれた通り皆、背が低いのね。顔はどの人も同じに見えるわ…」ゆっくり前に進みながら言い、「私に会いに来てくれたのかしら?」と小声で囁いた。 「怖くない?」と隣に並ぶ所まで来た由紀子に栗原が訊ねる。 「わからない…、でも何かされそうな怖さはないわ。ドキドキはしているけど恐怖ではない感じなの…」由紀子が言う通り、落ち着いているように見えた。  しばらくの間、2人でその薮を見つめていたが、 「あ、瞬きをするとなんだか可愛いわね」由起子がそう言うのを聞いた栗原は 「呼んでみようか? それともこちらから行ってみる?」と訊ねる。 「呼ぶって、どこへ?」由紀子はすぐに応えた。  栗原は少しの間考えてから、 「じゃ、縁側に呼ぶからどこかに隠れて様子を見て、怖くないと思ったら会えばイイよ」そう言うと、縁側へ行って引き戸の窓を大きく開けた。  そこから藪に向かって手招きすると3倍速の短い会話が遠くで聞こえた後、3人は速足にやって来る。 「こんばんは。3人揃って会うのは久しぶりですね」栗原が挨拶するとシニアと名付けた年長者が、 「由紀子さん、来たのですね」いつものように挨拶はせずに言った。 「はい、皆で会いに来てくれたんですね?」栗原が3人を見ながらそう答えると今度はジュニアが大きな目でパチパチと2回瞬きをして、 「由紀子さんに会いに来ました。ジュニアは愛情の勉強をしたいのです」と言う。  その目の焦点が自分より後ろのものに合っているように感じた栗原が振り返ると、そこに由紀子が立って静かに3人を見ていた。  どうしたら良いかわからない様子で黙っている由紀子を見た栗原は、 「妻の由紀子です」3人へ向き直って言いその後、再び由紀子へ振り返ると 「こちらがシニアさんで、ジュニアさんとスリムさん」自分が付けたニックネームでそれぞれの宇宙人を紹介した。  由起子はゆっくり縁側に来て膝をつくようにして屈み、 「由紀子です。はじめまして」と小さく頭を下げた。  由起子が3人に近づくとシニアとスリムは2回瞬きをしただけだったがジュニアはずっと目をパチパチさせ、落ち着かない感じになってしまった。  それを見た由紀子はジュニアに近づくと、 「緊張しなくてもいいのよ」そう言いながらそっと頭を撫でる。  すると、ジュニアは驚いたように一瞬口を開いた後、今度は長い瞬きをして大きな目で由起子をじっと見つめた。  ジュニアのその一連の反応が何を意味するのか栗原には全く理解できなかったが、何故だか由起子はすべてがわかっているようだった。  わかっていると言うより気持ちが通じ合っていると言った方が正しいのかもしれないがとにかく、お互いに何か特別なものを感じているように見えた。 「これからは私も愛情をあげますのでみんなで勉強してくださいね」その3人を見ながら由紀子が言うと、 「ここに来るのは休みが取れた時と聞いていましたが由紀子さんはいつまでここにいられるのですか」スリムと名付けた宇宙人は栗原が言った事を覚えていて訊ねた。 「ずっとここにいるつもりよ。だから友達になってね」由起子はスリムを見てそう言い、「友達になるには先ず、私の事を良く知らないといけないわね。詳しく話すのでリビングへどうぞ」と手の平で皆に上がるよう促した。  思いもよらぬ進展に唖然としている栗原の横で3人が靴を脱がずにそのまま上がり込もうとするので、 「あっ、靴は脱いでくださいね」反射的に言うと、 「ご心配なく。このままでも汚れません」シニアが靴の裏を見せ、ウイルスすら取り付くことが出来ない加工になっているのだと説明した。  確かに、その短い長靴のような靴の底には塵1つ付いていなかった。  リビングに置かれたソファに3人を座らせ、由紀子は向かい側のチェアに腰をおろすがそれを見ていた栗原は縁側に立ったままで自分はどうしようか迷っていた。  しかし、3人と共に話を聞けば由紀子に何が起きたのか分かるかも知れないと気付いてソファの横にあるスツールに腰掛ける。  由紀子は自己紹介というより、自分の幼いころからの人生を語った。  そして、理想の追求を信念として仕事を続けてきたことやそれが政治力によって貫き通せなくなったこと、会社では自分が必要とされていると思っていたが逆に疎まれていることが分かり、人間関係も行き詰っているなどと話した。  話を聞いた栗原は仕事上で何が起きたのか、どうして泣きながらここへ来たのか、ようやくその理由を知る事が出来たのだった。  すべて話し終わった由紀子は3人を見ながら、 「愛情の形は、その人が成長する過程でどんな愛情を受け取ったかによって変わってしまうの。人によって愛情の形は大きく違い、それを受け取る為には一緒に何かをしたり長い時間を共にしてその形を知る必要があるのよ。私がどんな環境で育ったのか、どんな人生を生きているのかを知ることで愛情を受け取る手助けになればと思って話したのだけど、何か分からない事はなかったかしら?」と3人を見て訊く。  すると、年長者のシニアが 「私が最も理解できなかったのは、仕事で良い物を追求することが許されないという事です。我々の世界なら由紀子さんの考え方は完璧な正解で異論を唱える隙などないのに何故、ここではそうなるのか理解できません」とすぐに質問してきた。  栗原はここが学校の教室になったみたいだと思いながら、その先の展開を楽しみにした。  由起子は腕を組み、その質問の答えを導き出そうとしてしばらく考えた後、 「そうやって物事が論理的でなくなるのは、感情に左右されるからなのかも知れないわ…」噛みしめるように言った。  シニアがそれを聞いて、 「我々の祖先も感情を持っていたと古い歴史書には書かれています。実際、現代を生きる我々の中にも感情のような感覚をうっすら持った者が存在するのは確かで、祖先から受け継いだのだと考えられています。我々3人もその感覚を少しだけ持ち合わせていて、感情を研究するのに相応しいと選ばれてここに来ました。中でもジュニアが最もその感覚を持っています」ジュニアの方を見ながら話した。 「先程、由紀子さんが言ったように感情が全ての論理的でない物を創り出しているのなら、我々が住むような合理性だけを追求した社会を作るのに感情は邪魔になる筈です。愛情と同じように友情も感情であるなら、我々が長い歴史の中でその両方の感覚を失った理由も良く理解できます」と今度はジュニアが事務的な口調で言う。  そして、再びシニアが口を開き、 「我々の社会には論理的に解決出来ない問題が沢山あり、それが感情によるものかも知れないと考えています。それらを解決するには感情を理解することが不可欠で、その研究の為に我々3人が地球に派遣されているのです」と感情を全く感じさせずに話し終えた。 「なるほど。愛情を学びたいと言ったのはあなた達の社会にある様々な問題を解決する為なんですね」栗原が訊ねると、 「それ以外にも、精神的な病気については判っていないことが多く、僅かに残っている感情がその原因かもしれないと考えられていますし、祖先が感情という感覚を持っていた頃の書物や物品に関してはその内容、形や色についての根拠が謎だらけです。感情の理解なくしては意味が分からないものばかりで、我々がどこでどう誕生したのかその起源すらわかっていないのです。つまり、感情を理解することが多くの謎を解き明かすカギで今、我々がしなくてはならない事だと重要視しているのです」シニアに代わり、ずっと黙っていたスリムが同じように事務的な口調で説明した。 「地球の人類の起源も完全には解明されていないから、その謎を解き明かしたい気持ちはよくわかるわ。どの星に住んでいても同じなのね」由紀子は3人の事務的な口調を気にすることなく呟いた。  栗原は宇宙人達に恐怖感や違和感を抱くことが無かった由紀子を見てホッとすると同時に自分より自然な態度で彼らに接し、より打ち解けているように思えて羨ましくなっていた。  より打ち解けたと思えた大きな理由の1つは彼らが話している由紀子と目を合わせているように見えたからで、感情の無い彼らはこれまで栗原と目を合わせた事が無かったからだった。  実際、目が合うことはあったかも知れないが話している事を理解しようという感情が一切伝わってこないのでそうだとは感じられなかった。  しかし今日は3人共、話をしている由紀子と目を合わせているようだったし、特にジュニアは話を理解しようとしてなのか頻繁に目を合わせているように見え、その目から伝わる何かがあるような感じがしていたのだ。  由起子もそれを感じてなのか時々見つめ返しているように見えたから栗原と同じものをその目から受け取っていたのだろう。  由起子は黙ったまま何かを考えていたが、 「感情という感覚をどうしたら理解できるようになるのか、どんな方法が良いのか少し考えさせてね。愛情ってすぐに歪んじゃうデリケートなものだし、伝えるのが難しいものだから…」そう言って3人の頭を順番に撫でた。  それを聞いたシニアが 「では、考えがまとまった頃にまた勉強しに来ます」と言い、足が床に届いていないソファから少し勢いをつけ、滑り下りるようにして立つと縁側へ向かう。  スリムも同じようにして同時に立ち上がりシニアと共に縁側へ向かったが、ジュニアはソファに座ったまま3倍速の早口で2人に何かを言ってから後を追い、何度も由起子へ振り返りながら藪の中へ消えた。  由起子は呆気にとられながらそれを見送り、 「どうしたの? 突然、帰ってしまうなんて…。まだ聞きたい事が沢山あったのに…」栗原の顔を見て残念そうに言う。  栗原は笑みを浮かべ、 「これが彼らのやり方さ。いつも用が済んだら挨拶なしで突然、帰ってしまうんだ」そう言って3人が消えた藪を見つめていた。
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