第1話

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第1話

 小さな高速船のキャビンは3畳程の広さしかなくその上、床から出っ張る大きなエンジンフードがあったが他に乗客がいないお陰で狭くは感じなかった。 しかし、唸り続けるエンジン音と排気ガスの臭いに20分間じっと耐えてきた栗原は操縦室の窓越しに島が大きくなってくると胸を撫でおろした。  その視線の中で船長が振り返り、島を指差しながら何か言ったがその声はエンジン音にかき消されて届かず、栗原はただ笑顔を返しただけだった。  やがて、その島が操縦室の窓に入りきらない大きさになると遠くの岸にある赤いものが桟橋だとハッキリわかるようになった。  しばらくして船がスピードを落とし、ようやくエンジンは唸るのを止める。 「さあ、もうすぐ到着だ!」今度は船長の大きな声がハッキリ聞こえた。  3分後、桟橋にいくつも取り付けられた古タイヤに船体が擦れる音を響かせて高速船は着岸し、すぐにキャビンのドアが開けられた。  栗原は揺れる船から慎重に桟橋へ降り立ち、 「お世話になりました」と軽く頭を下げて微笑んだ。 「これに乗りたい時は電話をくれりゃ迎えに来っから…。どこに電話するかはあの売店にいるおばあさんが教えてくれるからね」  船長は50メートル程先にある民家のような建物を指差して言うと、そこからの乗客がないのを確認してキャビンのドアを勢いよく閉めた。  ゆっくり向きを変えた高速船はブオンッと1度だけ大きくエンジンを唸らせ、真っ黒い排気ガスの塊をそこに残して桟橋を離れていく。  再び唸り出したエンジン音がまるで都会の喧騒のように思えた栗原は、暮らし慣れた東京が遠くに行ってしまう気がして寂しい思いでそれを見送った。  やがて、高速船の黒いシルエットが夕日の中で小さくなるとその船着き場は静まり、桟橋が波で揺れる度に聞こえるギイーという音だけが辺りに響くようになる。  まだ夕方だったがそこには軽トラックが1台停まっているだけで人の姿はなく、あまりの静けさから知らない島へやって来た事を栗原に実感させた。  1人でそこにいる事に耐えられなくなった栗原は高速船の船長が指し示した売店に行ってみることにする。  歩き始めるとピーヒョロローと空高く鳴く声が耳に届いて見上げると、島のほぼ中央にある山の上をトンビが数羽旋回していた。  立ち止まってその光景を眺める栗原の鼻に、乾いた海藻のような磯の匂いがベタつく潮風に乗ってやってくる。  民家のようにに見えるその売店は西日が殆ど入らないからか中は薄暗く、蛍光灯が店内を明るくしていた。 「こんにちは…」入り口のガラス戸が開いていたので栗原が外から声を掛けると、中で店のおばあさんと立ち話をしていた高齢の男性が振り返り、 「あぁ、栗原さん。今日だとは聞いていましたが、今の船でしたか…」と親しげに応えた。  その人は自分が借家を見に来た時に案内してくれた区長の高橋だった。 「高橋さん。自宅の件では色々お世話になりました」栗原がその時の礼を言うと、 「いや、おあつらえ向きの物件がすぐに見つかって良かった」少し照れながら、被っていたキャップを取って小さくお辞儀をした。  栗原は店のおばあさんへ向き直り、 「栗原辰則と申します。東京から越してきました」と挨拶をした後、「分からないことばかりですが、よろしくお願いします」と丁寧にお辞儀をした。  おばあさんは栗原の丁寧な挨拶に驚きながら、 「あらまあ、ご丁寧に…。わたしゃ店主の田口博美です。80歳のばあさんだから古い事しか知らんけど、困ったことがあったら何でも言ってくださいよ。ここにいる高橋さんは区長をしていて島の事なら何でも知ってるし、面倒見がイイんだから心配は要らないよ」と、10歳は若く見えるその日に焼けた顔を笑顔に変え、かすれた声で言った。  それを聞いていた高橋は大きく頷いた後、 「まあ、住んでればその内色々と分かってくるでしょう。ちょうどいい、私の車でお宅まで送りますよ」栗原の返事も聞かずに店を出ると、「じゃ、また来っから!」とおばあさんに右手を挙げて歩き出した。 「改めてご挨拶に伺いますので…」 どこかに向かって歩く高橋を目で追いながら、栗原が店主のおばあさんに言うと、 「挨拶なんていいよ。それより早く行ってやりな、あの人せっかちなんだから…」と困った顔で笑いながら言った。 「では、失礼します」栗原も笑顔で言うと店を出て高橋の姿を探す。  船着場の広場に停めた軽トラックの横でタバコに火をつけているのを見つけた栗原が小走りでそこまで行くと、 「小さい島だから歩いたって30分も掛からんけど、車なら5分だからね」高橋はそう言って自分と反対側のドアを指差し、吸い始めたばかりでさほど短くなっていないタバコの火を指で消した。  栗原は小さく頭を下げて反対のドアへ回り込み、 「お願いします」と再びお辞儀をして軽トラックに乗り込んだ。  2人が乗った車は島の一番外側にある海岸沿いの道路を走った。  夕日が沈んでいくのを眺めながら海が一望できるその道路を5分程走ると、 「着きましたよ。借りた家はここでしたよね?」高橋は道路から少し高くなった所にあるその一軒家を、フロントウインドー越しに見上げながら上目遣いで言った。 「きれいな景色にすっかり見とれていました…」 沈みゆく夕日でキラキラ光る海の美しさに魅せられていた栗原がその声で我に返り、恥ずかしそうに笑うと、 「私らにとっちゃこれが普通ですから、なんてこたぁないですわ」高橋は景色が褒められた事にまんざらでもない顔でそう答えた。  栗原が車から降りてドアを閉めると、 「じゃあ、私はこれで帰らせて貰いますわ」高橋は顔の横に小さく手を挙げて言い、軽トラックを少し乱暴にUターンさせる。 「ありがとうございました」と頭を下げながら反対に向きを変えた車を見送った栗原は家の玄関へ続く、10段程ある石段を上がって行く。  西日でオレンジ色に染まった玄関の鍵を回し、ドアを大きく開くと閉めきっていた少し古い家の匂いが一気にそこから流れてきた。  栗原が借りたのは平屋ながら台所の他に5つも部屋がある家で、敷地内にはその軒が大きく横に張り出した形の作業小屋まであった。  その軒は屋根と行った方が良い位の大きさがあり、軒下には手作りした陶芸用の焼き窯がある。  以前ここに暮らしていた人は陶芸を生業としていたらしく、焼き窯はあちこち傷んでいたがしっかりした造りで少し手入れをすれば使えそうに見えた。  栗原は陶芸家としての新たな人生をここから始めるつもりだったので窯を作る場所がある、広い敷地の物件を探していたがすでに焼き窯を備えるこの家を不動産屋から紹介され、その場で借りる事を決めたのだった。  その時、不動産屋と共に案内してくれたのが先ほど車で送ってくれた区長の高橋で、前に陶芸家が住んでいた事や山のどこかで陶芸に使える粘土が採れるということも教えてくれたのだった。  粘土は敷地の裏手にある小道から続く登山道を上って行った何処かで採れるらしく以前、ここに暮らしていた陶芸家はその土を使って作品を創っていたらしい。  どうしても地元の土で陶芸をやりたかった栗原は、時間が掛かってもその粘土を探し出すつもりでいた。  事前に引っ越し自体は済ませていたので、家の中にはすでに一通りの家具が大体の位置に置かれていて、荷物だけが段ボールに入ったままあちこちに積まれていた。  空気を入れ替えようとすべての窓を開け放すと、少しベタつくような夏の海風が家中を渡っていく。  その風が心地よく感じた栗原は万歳をするように伸びをしながら床に寝転んで目をつぶった。 「あー、風が気持ちいいなあー」寝転んだまま目を開けると海側の窓から差す西日が、暗くなり始めていた部屋の天井をオレンジ色に明るくしている。  そうやって1人で床に寝ていた栗原は東京に残してきた妻の事を思い出し今朝、別れたばかりだったが少し恋しくなっていた。 「一緒なら寂しくないけど…。まあ、自分で決めた事だから仕方ないか…」そう言うと勢いをつけて床から起き上がり、食事の支度をする為に台所へ向かった。  食材を買いに行く時間はなかったので料理が出来るという訳ではなく、支度と言ってもそばを茹でるための鍋を火に掛けただけだった。  1人でそばを食べ、食器を片づけた栗原が時計に目をやるとまだ6時を過ぎたばかりだ。  東京にいれば社内で会議の真っ最中という時間だったが、ここにいるとそれがどこか遠くの世界に思えて栗原は不思議な感じがしていた。  今までは何をするにも期限のようなものがあると感じ、遊びですらスケジュールに従って終わらせるか次の予定があって終わりにしなくてはならなかったと初めて気付き、なぜ遊びや私生活までスケジュールを組んで生活していたのだろうかと、ふと思った。  仕事を中心にして生活すれば必然的にプライベートもスケジュール化しないとこなせなかったのかも知れないなどと考えながら、 「こんな時間が欲しかったのかも知れないな…。明日の事は明日考えればいい、というか明日やりたい事をやればいいんだ」そう独り言を呟いた。  時間がたっぷりあるように思った栗原は久しぶりにゆっくり湯に浸かろうと浴室に行って蛇口をひねり、湯船にお湯を貯めながら洗い場の床に溜まったほこりをシャワーで洗い流す。  浸かるのに十分な位のお湯が溜まる頃には6時半を過ぎていたので湯船に入ると持ち込んだタブレット端末で妻の由紀子へテレビ電話を繋いでみる。  以前なら6時過ぎには帰宅して食事の支度を始めていた由紀子も最近は忙しくなって残業も多く、戻っていない可能性もあったが栗原はどうしても声が聞きたかった。  スマートフォンを呼び出すと予想に反し、すぐに由紀子が応答した。 「お疲れ。今、忙しいかな?」栗原が切り出すと、 「大丈夫。ちょうど今、戻ったところよ。そっちはどう?」何かトラブルが起きたと思ったのか少し心配そうに訊いてきた。  忙しい1日の仕事を終えたばかりの緊張感が残るその声は都会を感じさせ、田舎の島へ移住して最先端から退いてしまった事への後悔のようなものを栗原に抱かせる。 「うん、やる事が沢山あって明日からは忙しいけど、今はのんびりしているよ。この通り、風呂に入ってね」  そんな由起子の声を聞いた栗原は無意識に明日から忙しいと言っていた。 明日の事は明日考えればいいと呑気にそう思ったばかりなのに東京にいた時の感覚に戻ってしまい、ゆったり過ごす事に何か罪の意識を持っていた。 「自然が豊かで静かな所なんでしょ? 羨ましいけど、こっちに仕事があるうちは引っ越すのは難しいわね。いつまでこの仕事を続けるのかわからないけど…」  由紀子は少し申し訳なさそうに言う。 「僕が陶芸で食べていけるのかはまだ判らないし、じっくり考えればいいよ」  2人が離れて暮らす事になったのは自分のわがままな夢が原因だと思っている栗原はすぐにそう応えた。 「私が重要なプロジェクトの最中じゃなければ、最初の数日くらいは一緒にいてあげられたのにね。何も手伝えなくてごめんね」  由紀子がそう言って再び済まなそうにするので、何か楽しい話をしたかった栗原は話題を変えることにして、 「明日は山へ出掛けて陶芸用に使える粘土を探してみるつもりなんだ。午後からは焼き窯の修理に取り掛かるよ!」と明るい声で話した。 「知らない場所だから山に行く時は気を付けてね。何をするにもまだ勝手が分からないでしょうから」  栗原が1度、何かに夢中になると周りが見えなくなる事を知っている由紀子はそれを聞いて心配そうに言った。  その由紀子は東京の新宿にある有名な建築家が経営する設計会社に6年前から勤めている。  今年の始めに大きなプロジェクトの社内コンペで自分の案が採用されるとそのプロジェクトの責任者を任され、現在は多忙を極めていた。  陶芸家を目指す栗原は大学の工芸科で学んでいた20歳の時に「異文化交流会」と銘打った、様々な科の学生が集うサークルで建築科にいた由紀子と出会い、5年前に結婚したばかりだった。  卒業した栗原はウェブデザイナーとして働いていたが大学の頃から持っていた陶芸家になる夢を諦められず昨年の秋に会社を辞め、学校で自分を指導してくれた陶芸家に頼んで1年間みっちり土作りを教わった後、この島へ移住したのだった。  普段は何気なく交わしている会話も、違う場所でしかも画面越しとなるといつものようにはいかず、内容を考えすぎてなのか徐々に言葉が浮かばなくなってしまう。  由起子も同じように感じているのか会話する声のトーンがだんだん下がって来たのを感じた栗原は食事の支度で忙しいだろうと言い、早めにテレビ電話を終えることにした。  最初はゆっくり浸かるつもりで早い時間から風呂に入ったのに、そんな気分ではなくなった栗原は手早く身体を洗って風呂を出る。  寝室でパジャマに着替えると1日が終わった感じがしたがまだ寝るには早いと思い、とりあえず新しいマットレスの寝心地を試そうとベッドで横になってみた。  そのまま深呼吸して目をつぶると音の出るものがない家の中はとても静かで、海側の窓からは波の音が聞こえ、山へ続く小道がある家の裏手の窓からは知らない虫の声が沢山聞こえてきた。  東京にいた時は常にインターネットラジオで音楽を聴いていた栗原にとってそれは静かを通り越して寂しい程に感じ、人が出す音が恋しくなってベッドから起き上がる。  別の部屋に引っ越し荷物のまま置きっぱなしにしていたテレビを寝室へ運び、梱包を解いてアンテナと電源を繋ぎスイッチを入れた。  すぐに画面が明るくなり普段、帰宅後に食事をしながら観ていた賑やかな番組が流れてくると、いつもの自分に戻れた気がしてホッとしたがしばらくするとテレビの中で展開されている世界が昼も夜もない都会の喧騒そのものに思えてきた。  時計に目をやると8時を過ぎたところでようやく夜が始まったばかりだと言うのに家の周りの時間はとてもゆっくり流れている気がした。  その暗さのせいでそう感じたのかも知れないがここに住めば明るくなったら起き、暗くなったら眠るというような自然と協調した暮らし方になるのだろうと栗原は思った。  これからは何をやるにも期限はなく、ただ気楽にやれば良いと最初は思ったが実はそうではなくて冬が来る前に冬支度を、夏が来る頃には雑草を刈らなくてはならないという具合に自然がその期限を示してくれるのかも知れないと思った。  都会のようにやりたい時に何でも出来ると言う訳ではなく、明るいうちに済ませなくてはならない事や晴れている間にしか出来ない事も沢山あるはずで、それに従って生活するのがここでの暮らし方なんだと分かったような気がしていた。  騒音など無い方が良い筈なのに静かな所が落ち着かないなんて、いかに都会の雑然とした環境に自分が慣らされてきたかを思い知らされた栗原は、その恵まれた環境を味わう為にテレビの電源を切ると縁側の掃き出し窓を大きく開けて空を見上げた。  それは東京で見ていたものより濃い、黒に近い群青色の空でいつも簡単に見つけられるオリオン座がどこにあるのか見当もつかない程、沢山の星が瞬いている。  今まで見ていたものとは違うその奥行のある青黒い色が頭上の空のすぐ向こうに宇宙空間がある事を想像させ、地球が宇宙の一部であると実感出来た。  栗原は自分が地球と共に宇宙空間に浮いているのだという初めての感覚と共にその空をいつまでも眺めていた。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇   部屋の中が明るくなってくると栗原は次第に眠りから覚めた。  壁に掛けた時計を見ようと寝ぼけた顔をそちらへ向けると、短い針は5時を少し過ぎたところにある。  昨夜は満天の星を長い時間眺めて心がとても落ち着いたせいか、何年か振りに朝まで1度も起きることなく熟睡する事が出来た。  そんな熟睡の余韻の中、すぐに起きるのが勿体なく感じてスマートフォンに配信されるニュースをベッドの中で読んでいると山の方でトンビが鳴き始める。  その後、他の鳥の声がしてくると栗原は決心したようにベッドから起き上がった。  借りた家は山の西側に位置しているので直接拝む事は出来ないが、歯を磨きながら窓越しの海を見ると遠くの水面が朝日に照らされてキラキラと眩く輝いていた。  ベッドの中で見た予報の通り、今日は一日中天気が良さそうだと思った栗原は朝食を食べた後、庭の裏から登山道へ続く小道を探してみることにする。  以前、ここに住んでいた人は登山道を登って行った先のどこかで良質な粘土を見つけ、その土で陶芸をやっていたと家を借りる時に聞いていたがその小道が今は藪に埋もれてしまいどこにあるのか判らなくなっていたのだ。  10分程歩いた所に登山道の入口があるので小道を通らなくても登れなくはないが、庭の裏から続く道は途中から合流する近道なので粘土を探しに行くのに都合が良いと思っていた。  粘土を見つけた場所については陶芸家が秘密にしていたらしく知る者はなく、低い山とは言え探さねばならない場所は至る所にあったが宝探しのように思っていた栗原は朝からワクワクしていた。  玄関を出た栗原は小道があると聞いた庭の裏手を見て回るが、一面に藪があるだけでどこがその始まりなのか全く分からない。  藪の向こうに見える林の様子から小道があったと思われる場所の見当を付け、手にした鎌であちこち雑草を刈っていくと人為的に砂利が敷かれたような地面を見つけた。  そのまま少し草を刈って進むとその先にも砂利敷きの地面が続いているように見える。  雑草を刈るのが面倒くさくなってそこから先は砂利を確認しながら足で踏み倒して進み、30メートル程行くと突然視界が開けて杉林に到達した。  林の中に藪はなく低い下生えが茂っているだけだったが道はどこにも見当たらず、これからどこを行けば良いのか考えながらしばらく眺めているとやがて、曲がりくねった小道の痕跡がずっと先まで続いているように見えてくる。  早速、その道の跡に見える部分の草を刈ってみるとそこにも砂利が敷かれていてそれを辿りながら100メートル程行くと、緩やかだった坂道が勾配を増して幅が広い登山道と合流した。  そこには半分朽ちてしまった木の板の標識があり、左が「西登山道入口」、右が「天地山山頂」という文字が辛うじて読めた。  右に行けば山頂に辿り着けることがわかった栗原は一旦、自宅へ戻り、デイパックを背負うとその登山道を登り始める。  山と言っても標高300メートル程しかない低いものだったから、ゆっくり登っても50分位ですぐに丸い形の頂上が見えてきた。  左右を確認しながら登って来た栗原はあと50メートル歩けば頂上に着くという所でふと、左側にある高さが3メートル位の茂みの中へ続いている獣道の跡ようなものを見つけた。  殆ど茂みに覆われているがよく見るとその道にも砂利の様な小石が敷かれていて、獣道にしては少し幅が広いように思える。  その砂利が庭の裏から続く小道の砂利と似ているように見えた栗原の頭の中で、どちらも同じ人が造った道でこの場所こそが粘土の採取場所だという想像が膨らみ始めた。  急いで茂みの入口辺りを刈ってみるとその先も砂利が続いて見え、ますますそれが道として使われていたように思えてくる。  そうなるともう栗原にはそこが粘土の採れる所で陶芸家が秘密にしていた大切な場所だとしか思えなくなり、茂みの先がどうなっているのか何が何でも見てみたくなった。  無我夢中で30分程濃い茂みを刈り続けて10メートル位進んだところで栗原は突然、大きく開けた広場のような場所に出た。  驚いて見回すと低い雑草だけが生えている100メートル四方のサッカーグラウンドのような場所でそこが山の頂上付近だと考えると明らかに不自然だった。  誰かが山の斜面を切り崩して平らにしたのか、その土地の山側は崖のような急斜面になっていて土がむき出しになっている。 「ここから粘土を採っていたのかも知れない…」栗原はそう呟くと崖に向かって歩き始めた。  土が露出したその崖を見渡してみると誰かが掘った跡のようにそこだけが窪んでいる部分を見つけ、そこに生えている雑草を刈り取ると茶色い土に混じって所々に白っぽいものが顔を出した。  持っていたシャベルでその白い部分を掘ってみると粒子が細かく、少しねっとりした感触の粘土が出てくる。  その粘土を手にした栗原はその広場を見回しながら、「江戸時代にはここに陶芸品の工場があって島の名産品は焼き物だった」という根拠の無い空想を膨らませ始めた。  頭の中で茅葺屋根の大きな作業小屋やいくつもの焼き窯がある光景をこの場所に描き、あちこちに積んである粘土のまわりで働く作務衣姿の職人たちを重ね合わせると、その時代の陶器工場がここに出来上がり、こんな所にあるだだっ広い平らな土地が不自然じゃなくなった。  栗原はしばらく空想で遊んだ後、粘土を10キロ程採取してビニール袋に入れると背負っていたデイパックの中にそれをしまう。  デイパックがずっしりと重くなったが粘土らしきものを見つけることが出来て逆に心は軽くなり、山の頂上からの景色を見てみようと再び山道を登り始めた。  5分程で到着した山の頂上からは島全体を見渡せ、この島がどんな形でどこに人が住んでいるのかや道路がどこを走っているのかなどを立体的に把握できた。  青く晴れ渡る空の下、そこから見える島の様子を観察しているとその頬を心地よい風が撫でていった。  そのあまりの気持ちよさから背負っていたデイパックを下ろした栗原は芝生のような短い草の上に大の字で寝転んだ。  白い雲と青い空だけになった視界の中をトンビが3羽飛んでいたが眩しさから目を瞑るとやがて眠ってしまった。
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