彼女について

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  一 今日から、ある女性についての記録をつけることにした。 しかし、かしこまって書いても、長く続きはしないので、 淡々と、長くもなく、短くもない、そういう彼女の日常を書きたいと思う。 わたしは、できる限り、彼女へ感情を寄せずに、事実のみを記述したい。 彼女は最近機嫌がいいようだ。 仕事も決まりそう。 年金の話が進んでいる。 治療病院が増える。 カウンセラーと話せるようになった。 障がい者支援所での話ができる。 単純に、やることが増えたこともそうだが、彼女の狭い人間関係の中では、 事務的な関係性でさえ、大切な関係性のように見えるようだった。 それが、うれしかったのだろう。 元々、彼女は親とも事務的な関係性の中で、対人関係を持っていた。 そのため、皆が言うように、「どうせ仕事上の関係」という境界が理解しにくいのだろうと、思う。 今回のそれも同じで、支援者達との関係性は、友人のような、家族のような、微妙な距離感を持ってそこに在り、彼女自身と対峙するものが増えれば、増えるほど、自分というものが薄まってゆく。共有されてゆく。 その感覚が、彼女の精神を安定させている。 その事実がうれしいのである。 いずれ、居なくなる人もいるのだろう。 しかし、その他大勢と、彼女は一緒であることが、彼女自身の存在も「その他大勢」にしてくれるように、感じるのだろう。 これが、例えば、対個人になってしまうと、自分を特別な存在へと引き上げられたように感じてしまう。多くの人はそれを望む。 しかし、彼女の場合、あまりにも肥大化している自我の前では、「自分を薄めてくれる環境」が大事、だと思っているようだ。 逆を言えば、彼女には「自分」というものがないのかもしれない。 だからこそ、外の環境への影響を受けやすく、外がすべてで、中がほとんどないのかもしれない。 しかし、彼女はよく言う「自我の構築が外部で行われるのであれば、自分なんてものは内在している訳では無く、外部生成によるものだ。自分を内側に探す、というものは、たまねぎの皮むきと同じだ」と。 つまり、彼女は外からの刺激によって、内側の鏡に何かが写るように、反応をしている私がいるだけだ、と考えているようだ。 彼女の話は時々難解であるため、私自身、長くつきあうことは難しい。 彼女の言う通りだとしたら、その考えている彼女は、誰なのだろうか?
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