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薫は蟹山の診察を終えると、椅子に大きくもたれかかり、ため息をついた。
もう患者は来ない。これからは、自分との戦いの時間だ。
今しがた帰ったばかりの彼のカルテを眺める薫の中には、やはりくすぶるものがあった。
本人の希望とはいえ、入院治療をしないというのは非常に厳しい選択だ。満たされることのない飢餓感を常に抱え続ける生活が楽ではないことは、知っていた。今までにも、入院をするつもりのない患者は何人か診てきたが、全員が耐えきれず、数日で音を上げた。
自分の入院費で妻に負担をかけたくない、という蟹山の言葉を否定したくはない。しかし今まで多くの患者を診てきた人間として、それを勧めるのはいかがなものかという思いもある。
「薫、何悩んでんだ。蟹山さんのことか?」
不意に後ろから声をかけられ、薫は思わず振り向いた。そこにいた青年は、同僚の充希だった。
何を言うべきか、言葉をひとつひとつ選びながら、薫はつぶやいた。
「奥さんのためにも、入院はしたくないって言ってるの。通院だけでどうにかするってつもりらしいのよ。たしかに、奥さん1人に高額の入院費を全部払わせるのは酷だと思う。でも・・・・・・やっぱり、通院治療だけで良いって言う蟹山さんの言葉にうなずいてしまったことも、後悔してるの」
「言いたいことはわかる。でもまずは、蟹山さんの意思を尊重しようぜ。あのことだって、きちんと伝えた上で納得してもらったんだろ?」
確かめるような充希の問いかけに、わずかに顎を引く。それしか、薫にはできなかった。入院治療を希望しない蟹山が、これからどんな苦難の道を歩むか分かっていたからだった。
摂食中枢機能低下症のための入院治療は、患者たちが自分で言いだしたことがきっかけだった。
食べても食べても満足しない。体が破裂するまで、いや破裂しても、食べたいという欲求が後から後から湧いてくる。もういっそのこと、ずっと眠らせてくれ。そうすればこの苦しみも、幾分かましになるだろうから。
もちろんそれは、安楽死につながる発想として、最初は拒否された。しかし、空腹に耐えかねた患者がシーツをかじり、枕を食いちぎり、ベッドの足にまで食いつこうとしていたのを見て、医師たちも覚悟を決めたのだ。
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