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 カランカランとドアベルが喫茶店内に響く。  老年のマスターが落ち着いた声で「いらっしゃい」と受けた。客は勝手が知っているように、案内されることなく空いていたカウンター席に座り「コーヒー」とだけ言った。  マスターがコーヒー豆を挽き始める。ガリガリという音が響く。  テーブル席では2人の学生が話し合っていた。  男子学生が言った。 「もしさ、お互い30歳まで独身だったらさ、結婚してやるよ」 「は?ユウヤの癖に生意気なんだけど。付き合ってもないのに、何言ってんの?」 「俺はさ、お前が一生独身だったら可哀想だと思って言ってるんだよ。優しさなの」 「余計なお世話だっつーの」 「まあ、いいさ。12年後の今日、独身のままだったらここに集合な。ミナ」  ミナはユウヤから顔を背け、壁に飾ってある絵画を見た。その頬は桜色に染まっていた。  その会話を聞いていた他の数人の客は、すこしだけそわそわしだした。  その会話は、どう考えても照れ隠しに冗談を装った真剣な告白だった。その青春の一場面に立ち会えたことの気恥ずかしさを感じていた。  個人経営の小さな喫茶店では、二人の会話はそこにいる全員が聞いていた。さらに、全員がミナとユウヤのことを知っていた。全員が常連客であり、二人が子供の頃から見守っているような感じだった。  客がそわそわする中、マスターだけが震えていた。コーヒーを挽く手も止まっている。 (「12年後の今日、ここで」?え?12年後?)  マスターは御年68歳。12年後は80歳。誰にも言ってなかったが来年には店を閉めよう思っていた。  できることなら店を続けたかった。しかし、妻も子もなく、従業員も雇ったことがなかった。それに、もう体力的に厳しくなっていた。 (80歳まで頑張れるだろうか?) 学生2人が出ていくと、待ってましたとばかりにトチさんとあだ名されている男性がマスターに寄ってきた。 「聞いたかい、マスター。いいねぇ。青春だねぇ。あれは12年も待たずに結婚してるね。いや、もう付き合ってると言ってもいい」 「そんな邪推は無粋ですよ。温かく見守ってあげましょうよ」  そこにメガさんと呼ばれている女性がマスターに加勢した。 「そうだよ。あれは難しいお年頃なんだから。そっとしとき。でも、聞くところによると、あの二人は付き合ってないみたいだよ」
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