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たけちぃ
「零時を回る頃でした。夜道を歩いていると、街灯のある曲がり角から、突然男が飛び出して来たんです」
ーーー久しぶり!
男はそう言って、イヤな顔で笑ったそうだ。
背が高く、痩せた男だった。
男は異様な面相をしていた。眼は黒豆のように小さく、顎は右曲がりに尖っている。頭髪は禿げ上がっているのにモミアゲだけはやけに毛量が多く、使い古した歯ブラシのように毛がぐしゃぐしゃになって飛び出していた。
Aさんは嫌悪に顔を歪めたのを相手に悟られないよう、咄嗟に自分の顔を両の手で覆い隠した。
男は黄色い歯を剥き出しにして笑った。
ーーーたけちぃだよ?
男はそう名乗ったが、Aさんには、男の顔にも、『たけちぃ』という名前にも心当たりは無かった。
バカな配信者がドッキリでも仕掛けているのかと思い辺りを見回してみたが、それらしき姿はどこにもない。
相手はホンモノの人かもしれない。
Aさんは、怖くて何も言うことが出来なくなってしまった。
ーーーん? んんん?
『たけちぃ』と名乗った男は、そんなAさんを見て小首を傾げている。黒豆のような眼が、じっと彼女に注がれる。
あまりの恐怖に、Aさんの身体がガクガクと震え出す。助けを呼ぼうと大声を出しかけた瞬間、
ーーーあっ、ごめーん。はやとちりだ。
そう言って、急に『たけちぃ』は破顔し、頭を下げた。
そして、元来た曲がり角へと引っ込んで行ってしまった。
Aさんは一呼吸置いた後、恐る恐る曲がり角を覗いた。
「行き止まりだったんです、そこ」
袋小路の先にある塀の高さは、大人が頑張ればよじ登れる程度の高さだった。だから、たけちぃはAさんがそこを覗く前に塀をよじ登って逃げたと考えるのが普通なのだがーー
あの男が、そんな普通の方法で消えたとは到底思えない。
Aさんは青ざめた表情でそう語った。
「最初は私もそんな風に考えたんです。でも、同じ日にーー」
沖縄で、殺人事件があった。
「被害にあったのは私と同い年の女性でした。目撃者の証言によると、女性を殺害した男は、自分のことを『たけちぃ』と名乗っていたそうです」
そして犯人の特徴は、Aさんが遭遇した『たけちぃ』と酷似していた。
「犯行時刻は午前零時頃。私があの男に遭遇したのもそれくらいです。でも、私はーー」
関東在住です。
関東から僅か数分で沖縄に行ける方法など存在しない。
常識的に考えるなら、容姿の似通った者が行った犯罪なのだろうがーー
「私は、アレが人間であるとは思えません」
Aさんは、青ざめた顔でそう締め括った。
※
Aさんの話を伺ってから数年後、彼女の訃報が私の元へ飛び込んできた。
Aさんは夜道を歩いている途中、不審者に刺されて亡くなってしまったのだそうだ。
目撃者の証言によると、その不審者はAさんを刺す前、
ーーー久しぶり!
と、言ったそうである。
その男が『たけちぃ』と名乗ったかどうかは不明である。
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