一話

1/1
8人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ

一話

 冷たい風が体をなでる。  だが去年に比べたらずっとマシだ。彼女は自分にそう言い聞かせ、吹いてくる風に目を細めた。去年のこの日は雨上がりでこれ以上の風が吹いていた。  若名(わかな)千波(ちなみ)、21歳。愛称はチナ。コスプレが趣味のOLだ。  この日は高校時代からの友人である、カヤとズッキとコスプレのイベントに参加しに来た。  まぁまぁ大きな駅の駅前がイベント会場。更衣室は駅から徒歩十分の所にあるホールなのだが、待機列は駅前の歩道橋まで伸びていた。  道の脇には小さなビルがいくつか。ビジネスホテルもある。商店街も。  風が吹き荒ぶ中、カヤはその場で飛び跳ねていた。 「さ~む~い~! あとでカイロ買いに行こ!」  紫のストレートヘアは移動用のウィッグだ。その下では目を大きく見せるためにテーピングで固定している。はじめの頃はウィッグネットを被った頭に帽子をのせたスタイルで移動していた。 「今年の更衣室列ヤバくない? 皆何時から並んでんの?」  横で遠くを見ながら腕をさすっているのはズッキ。同い年だがもう既婚者だ。結婚早かったよね、と言うと”田舎のコだから”とよく返す。 「SNS見たけど七時から並んでる人がいるみたい」 「うっそ!? これでも去年より早く来たのに……。来年はもっと早くに来る? コ〇ケみたいに」 「イベントなくなるよ……」  千波はスマホをしまいながらため息をついた。  更衣室列は年々長くなっていく気がする。千波はレイヤー歴二年のクチだが、レイヤー人口がじわじわ増えているのを感じていた。 「もう寒いの我慢できない! 列離れてコンビニ走ってっていい!?」 「……あたしのホットココアあげるから我慢して」 「チナー!? いいの?」 「うん。カヤが列に戻ってきて白い目で見られたくないから」 「あっ……。それ結構心に刺さる…」  千波はかすかに笑ってななにココアの缶を渡す。ゆきは手に息を吹きかけた。 「私も何か買ってくれば良かったかな…。あとどれくらいで更衣室入れるんだろ……」 「男性の方は前の方にお願いしまーす!」  なんというタイミングか、スピーカーを通したスタッフの声が響いた。女である千波たちは同時にため息をついた。それは周りも同じ。  レイヤーは女性率が高い。そのため男子更衣室はほとんどのイベントでガラガラ。規模が小さいイベントの時は一人で貸切状態になることもある、というのをなんとなく聞いたことがあった。 「お~やっと入れるか~」  後ろから近づいてくる声に、千波の眉が音が鳴りそうな勢いで寄った。ただならぬ表情に、カヤとズッキは首をかしげた。 「チナ? どうかした?」 「やっぱココアは渡したくない?」 「いやそうじゃなくて。なんか聞き覚えのある声────」  声が似てるだけで、知ってる人ではありませんように。アイツには会いたくないから。  千波が祈りつつ振り向くと、そこにはキャリーバッグを引きながら歩く男性が二人。片方は知らないが、もう片方は────。 「かs……!?」  明るい茶髪の男も千波に気づいたらしい。"げっ"と言いたげな表情で、慌てて唇に人差し指を当てた。  考えることは同じだったようだ。仕草だけで千波は察し、こくこくとうなずいた。  その男が立ち去ると、それを見ていた二人が千波に問いかけた。 「知り合い? イケメンだったね」 「知り合いっちゃ知り合い……」 「へ~? コスプレしてることバレるとマズイ相手? 相手もレイヤーだからおあいこかな?」 「……会社の先輩」 「「え゙」」 「しかも苦手な人」  千波はこの日一番のため息をつき、その後ろ姿を目で追った。  イベントの次の日は身体がけだるい。  のんびりとあくびをして駐車場を出て会社に向かって歩いていく。  くすみピンクのブラウスにモスグリーンのフレアスカート。カヤとズッキと選んだものだ。二人には桜餅みたい、と言われた。  肩にかけたバッグを持ち直すと、後ろから声がした。 「チナちゃんおはよー」  その声に"うわっ"と声を上げそうになったがなんとかこらえる。  千波は振り返って軽く会釈をした。その顔に笑顔はなく、目は冷めている。 「おはようございます。……ってか名前で呼んでいいなんて言った覚えないんですけど」 「いーじゃんいーじゃん俺らの仲なんだから」 「そうなった覚えはない」  千波は白い目で会社の先輩────香椎(かしい)(がく)を見上げる。  彼は一昨日、イベントですれ違った男。  あの後結局、開き直っていつも会社で会うように声をかけられた。部署は違うが会社の集まりや社内ですれ違い様に声をかけてくるので、わりと近い存在であったりする。 「それより……。香椎さんもレイヤーだったんですね」  お互いの趣味のことを持ちかけると、岳は照れたように頭をかいて笑った。 「はは……。チナちゃんこそ。でもバレたのがチナで良かったよ。しかも仲間だったし」 「これはお互い、内密ということで」 「もちろん。弱み握ったとか思うなよ?」 「バレました?」 「さっそく思ったのかよ!」 「あっ、バカ」  岳はバッグを持っていない方の手で千波の頭を小突く。彼女は丁寧にセットした髪を手早く手櫛で直した。鏡はないが手先の感覚で髪の毛の全体図が分かる。 「整えんの早いね。もしかしてチナはウィッグは自分でセットする派?」 「はい。髪をいじるのけっこう好きなんで」 「すごくね? 俺なんか全部友だち任せだよ」  まさか会社でこんな話をする日が来るなんて。しかも相手が相手だし。  割と普通に談笑しているが、カヤとズッキの前では岳のことを"苦手な人"なんて言った理由は────。 「がっくんおはよ~」 「はよざま!」  歳を食った猫なで声がし、それに答えた岳の姿を見て、千波は一人でスタスタと先へ進んだ。  猫なで声を放った女のことは見なかったが、声ですぐにわかった。自分の部署のお局様だと。  若い女性社員はどんなに仕事ができても気に入らない、若い男性社員や高い地位にいる者には好かれよう、認められようとする、絵に描いたような中年の女。千波は入社した時から大嫌いだった。  他の人も、表面上は仲良くしていてもこのお局が嫌いらしい。  それなのにコイツは。 (腹の中ではどう思ってるのやら……)  わずかに振り向き、冷たい視線を投げる。  どんなに疎まれている存在でも愛想よく応じる、岳のそういう所が苦手だった。  千波は嫌いな人には、自分から口を聞かない。  そもそも彼女は警戒心が強いタイプで、会社で心を開くのも時間がかかった。  だからなのか、誰にでも好かれて誰とでも仲良くなれる岳が正直うらやましかった。その反面、八方美人というのはこういう人のことを言うのかと皮肉った。  昼休憩。  食堂へ行く途中、いつの間にか岳が合流して千波の隣を陣取った。  千波はカルボナーラの上の卵をつついてボソッとつぶやく。 「……なんですか」 「朝あんなサッサと行っちゃって話し足りないからさ」  隣で岳は割り箸を割り、丼を持ち上げた。中身は牛丼のようだ。 「一昨日は写真撮らせてくれてありがとうね。俺、あのキャラめっちゃ好きでさ」 「ふーん」 「チナのことも好きだけどな」 「思ってもないこと言うな」 「本気だけど」  真面目な声音に、フォークを持つ手が固まった。  その様子に岳は口角を上げて目を細めた。 「チーナちゃん」 「香椎さん……?」  一時間待って更衣室に入り、やっと出られてカイロで暖まっていると、聞き覚えのある声がして首をかしげた。  ウィッグをかぶって派手なメイクをほどこし、普段だったら着ないような衣装を身にまとっているから、一見したら誰だかわからない。それなのに自分だと分かったなんて。  岳はいつもと変わらない調子で笑っていた。軍帽を外してウィッグの上から頭をかく。 「いや~さっきはヒヤッとしたわ」 「香椎さんでもそんなことあるんですね」 「そりゃあるよ? 仕事でミスった時くらい冷や汗かいたよ」  岳は青を基調とした軍服に身にまとい、マントを羽織っている。最近アニメが始まって流行っている、明治時代がテーマの作品のキャラだ。彼はあまり身長が高くないハズなのに今日は見上げる角度がいつもと違う。どうやらブーツで身長を盛っているらしい。  ちなみに千波たちは同じアニメの、仲良し女学生三人組キャラのコスプレ。  千波はミルクティー色の髪を両耳の下で束ね、鶯色の小袖にえんじ色の袴。茶色のブーツを合わせている。  さっきすれ違った時に一緒に歩いていた男は岳の長年の友人らしく、今は別行動中らしい。 「有名なレイヤーさんが好きなキャラのコスしてるらしくてさ、その撮影列に並んでるよ」 「うわ……。もう始まってるんですね……。でも去年と違って歩道を撮影用と通行用に分けたらしいし、歩きやすそうですね」 「ね! ねね! チナ!」  目を輝かせたカヤが千波の腕を引っ張る。ズッキも期待した顔をしていた。  先程、更衣室列に並んでいる時に約束したことを思い出した。イケメンだから話したいと。特にカヤが。  千波は苦笑いで岳に手を向けた。 「香椎さん。部署は違うけどね」 「どーもー! がっくんって呼んでいいよ」  ニコニコと手を上げる岳の感じの良さに、カヤとズッキはパァッと顔を輝かせた。 「めっちゃいい人じゃん!」 「これだけで?」    そんな千波の呆れた様子は放っておかれ、いつの間にか一緒に写真撮ろうなんて話している。  カヤがレイヤー界で重宝されているカメラアプリを起動させ、内カメラに設定して掲げる。 「四人だとちょっとキツイかな……」  いつもは身長がほとんど同じ三人で撮っているが、今日は自分たちとは身長が違う男が混ざっている。めいっぱい腕を伸ばすが、うまく収まらない。 「貸して。俺がやるよ」 「あ……。ありがとうございます」  カヤからスマホを受け取った岳は難なくかかげ、シャッターボタンを押した。 「はい。こんな感じでいいかな?」 「はい!」  彼女は満足そうにスマホを受け取って写真を確認した。 「がっくんって優しいですね」 「そんなことないよ~。でももっと言ってー!」  岳のふざけた様子に二人は笑ったが、千波は皮肉げに口の端を上げただけ。 「好感度上げたいだけでしょ」 「なんだチナ。うらやましい?」 「ンなわけ」 「そんな態度取っちゃって~。チナもカヤちゃんとズッキちゃんみたいにがっくんって呼んでよ」 「嫌です友だちでもないのに」  千波が腕を組んでフン、と鼻を鳴らすと急に肩を抱き寄せられた。  その瞬間、まとわりついていた冷気が一気に逃げていく。  何事、と思って横を向こうとしたら、頬がくっついてそれ以上首を曲げることができなかった。スマホの向こうでカヤとズッキが頬を染めた。 「はい。これで友だちね」  岳に肩を抱かれ、ツーショットを撮られていた。  体が芯から暖かくなっていく。否、熱くなってきた。 「……出た。レイヤー、謎の友だち定義」  いつもだったらスキンシップを取られたら殴っているのに。珍しくなんでもないような態度をとってしまった。 「そ。俺いっつも、仲良くしたいと思った人と自撮りしてんだ。もちろんビュープラで」 「女子か!? いろいろ女子か!」  千波がシャウトすると、岳は喉の奥で笑って彼女の頭をポンポンと叩いた。  やめて下さい、とここは拒絶できた。彼の手を押しのける。身長はあまりないが大きな手だ。  岳は世間一般でいう所のイケメンに当たる。しかもかなりの。千波から見ても、岳の顔はぶっちゃけいい。 「チナは私服もいいけど制服も可愛いな」 「お世辞言っても何も出ません」  顔を寄せてささやく岳の腹部に拳をめりこませる。少しも照れてなんかない、と。  コイツだけには絶対惹かれてはいけない。  そう自分に言い聞かせ、千波はいつも塩対応を徹底する。しかし、岳のことを嫌いになれないでいた。 「写真送るよ。SNS聞いていい?」 「SNSはちょっと……。ラインでお願いします」 「がっくんはチナのライン知ってるんですね。実は仲良いんですか? このコ、警戒心が小動物なみに強くて」  ズッキが心配そうに千波のことを見ると、岳は笑った。 「だよね知ってる。でも俺とは仲良いよ」 「そんなことない。ラインは社内連絡のグループで知られてるだけだから」 「でもツーショは欲しいんだね?」  カヤがニヤッも笑うと、千波はハッとして首をブンブンと強く振った。さすがにウィッグは外れないと思うが。 「いらない! やっぱあたしはいらない!」 「もう送ったよ?」  その日は帰りに三人で、イベント会場近くのファミレスに訪れた。少し早めにイベントから離脱したためか、店内は空いていた。 「チナ。あの人絶対チナのこと幸せにするよ」 「何急に気持ち悪い……」  注文をしてドリンクバーの温かい紅茶を飲んでいると、突ズッキが真剣な顔をした。 「イケメンだから感化されたんでしょ? 気を付けなよ」 「違うから。なんとなく分かるんだって。既婚者なめんな」 「がっくん、適当そうに見えたけど実は仕事かなりできる方なんじゃない?」 「まぁ、そうだけど」  千波は会社での岳のことを思い出しながらカップを持ち上げる。  まさかこんな話になるとは……。千波はため息を紅茶で押し下す。 「なんとなく分かるの。軽そうに見えて恋愛には誠実だろうなって」 「ふーん……?」 「出た疑いの返事」  料理が運ばれてきてからも、千波と岳の話題は続く。彼女はムスッとしてそっぽを向いた。 「……アイツが本当に誠実でも、八方美人なのは変わんないから。あたしが嫌いな人間と仲良い人、あんま好きになれないから」  千波は自分の部署で苦手な人が多い。むしろ嫌いだ。  岳はそんな人たちとも仲がいい。若い男だから気に入られ、いい扱いを受けているからか。 「気に入られておきたいのかなんなのか……」 「やっぱチナはガード固いね~……」 「本当に好きな人ができるか心配だよ」 「別にいいよ、そんなの。絶対叶わないだろうしあたしを好きになる男なんていないだろうし」  そう言って伏せた目は、悲しみと怒りを混ぜた暗い色をしていた。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!