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最終話
千波の部署のジンクス────ここに来た未婚の女性社員は全員寿退職できるというもの。
彼女は半分叶った。岳との交際がスタートしたのだ。
岳は付き合ってみると、周りが言うように適当な男ではなかった。
今回のことを周りに報告した所、誰からも祝福された。千秋も横溝も畑中も。
特に岳は千秋たちに、"絶対に千波を幸せにしな! なんなら最初で最後の相手になってしまえ!"とお祝いなのか呪いなのか半々な言葉と共に背中を思い切りはたかれていた。
そんな岳は男性社員たちから時折、恨めしい視線を向けられている。抜け駆けだ、と言われることもあるらしい。
普通にデートをすることも多いが、岳と一緒にコスプレイベントに行くことも多い。時々カップリングをやることもある。
参加者に撮らせてほしい、と頼まれると岳はいつも嬉しそうだった。
イベントにはカヤとズッキも誘うのだが、二人は遠慮して別行動をとる。
しかし、"一緒に自撮りしよう"と落ち合うと、イベントが終わるまで共に行動しがちだ。
次第に岳と千波が付き合っているのが会社内で広まり始めた。
交際は順調で、二人で泊まりがけのデートもするようになった。
岳は今まで千波が行こうと思いつかなった場所にも連れ出してくれる。彼は新しい世界をたくさん見せてくれた。
「若名さん、なんだか幸せそうね」
「え?」
他の部署の話したことのないような社員にも、声をかけられることが多くなった。顔の広い岳が恋人だから、だろうか。
「すっごく優しい表情をしてるもの。ウチも新婚の時はお互いにこうだったのにな〜」
女性社員は終始うらやましそうに笑いながら、"さらにいい報告が聞けるのを楽しみにしてるよ"と去っていった。
廊下で書類を抱えたまま、千波は頬に手を当てた。表情がゆるみっぱなしだったのだろうか。
再び歩き始めようとしたら、今度はクスクスという笑い声が聞こえた。
先程の明るい笑い声とは違い、陰湿な嘲笑だ。
ムッと眉間に皺を寄せて振り向くと、廊下の隅に二人の女がいた。先程までこちらを見ていたのだろう。慌てた様子で背を向け、窓の外を眺め始めた。
(また前の部署のおばはん二人か……)
お局様と三十代の先輩だ。二人の丸まった背中に、千波はため息をついた。
岳と付き合ってるのが広まり、前の部署の人間から反感を買った。あの部署には岳のファン、というよりガチ恋の独身が多いからだろう。
「あんな無愛想なコががっくんの彼女? ありえなーい」
「これが豚に真珠、ってやつかー」
「えーちょっとぉ! そんなの久しぶりに聞いたわぁ!」
今みたいに千波が一人で歩いてるとこそこそ言われたり、遠くから大声で悪口を言われる。
千波は目をとじると彼女たちに背を向けた。そのまま六秒数え、再び歩き始める。
これは千秋たちに教わった、気を落ち着ける方法だ。
前だったら食ってかかってたかもしれない。彼女たちと同じような言葉を返し、返り討ちにしてやろうと考えただろう。
しかし、今は考えを改めた。ヤツらと同じレベルになってはいけない。無視するに限る。相手にしなければそのまま本人に返るのだから。
「あ! 若名ちゃーん!!」
「はっはい!」
お局様たちの悪口をかき消すような声が、廊下中に響き渡った。その声に呼ばれると千波の返事も自然と大きくなる。
振り向くと、千波が手にしている書類を出しに行く部署の女性社員だった。
確か彼女は昨年入籍し、次の夏で寿退職する人だ。この前の新年会で常務が紹介し、千波も拍手をした記憶がある。
「がっくんと若名ちゃん、本当にお似合いよね〜!!」
「あ……ありがとうございます」
「がっくんはイケメンだし、若名ちゃんも可愛いもの!」
「ど、どうも……」
ここまでべた褒めされると恥ずかしい。
見た目の自信のなさは、周りのおかげで消えつつある。千秋たちにはファッションセンスや、引き立てるメイクの仕方を教えてもらった。
岳には定期的に"可愛い"と言われ、"そんなことはないって言う度に会社でチューするからな!?"と脅された。
千波がたじたじしているのも構わず、女性社員は千波の背中をバシバシとたたいた。
「本当にお似合い!ラブラブ!この前は温泉に行ったんだって!?」
「あ……えぇ」
どうしてそんなことまで知っているのだろう。しかし、今はどうでもよかった。
彼女のおかげで、お局様たちに遠巻きに順調な様子を自慢(?)できている。
チラ、と廊下の隅に目をやると、そこには醜い姿の女が二人。ハンカチを持たせたら噛み締めて"キーッ!"と悔しがるかもしれない。
「ちょっと、話聞かせてよ。今度ウチもそこに行こうかしら」
「ぜひ。すごくおすすめです」
そう話しながら妖怪”嫉妬にまみれた醜女"に背を向けた。温泉宿の良さや料理がおいしかったこと、温泉の質も最高だったことを教えた。
「合コンのセッティングは岳を試すためだった…?」
「そ。だって香椎、チナのことちやほやしてグダグダな関係を続けてたじゃん? だから気持ちをはっきりさせたいと思って。チナに本心をさらけ出してほしかったし」
千波と岳が付き合い始め、二年経った頃。千波はこの夏で24になった。
彼女は相変わらず仲良くしている千秋と一緒にランチに来ていた。今ではこうして二人で出かけることもしばしば。たまに横溝が加わることもある。今、その二人とはタメ口で話せる程の仲になっている。
橋駅の広小路にあるおしゃれなカフェでの昼下がり。外は太陽が照りつけているが、エアコンが効いている室内は快適だ。
「今だから言える話? ってヤツ」
「ふ~ん……。おもしろいこと聞いちゃった」
そう言って笑い合う。
すると店員がやってきて、二人の前にそれぞれお冷やを置いた。
「大丈夫? 食べれそう?」
「うん。つわりが落ち着いたの。食欲あり過ぎて困るくらい」
「そうか~。いや~チナがもうお母さんになるなんてね~」
「ホントに。人と付き合うどころか、子どもを授かるなんて想像できなかったよ」
千波は優しい瞳で、愛おしそうに自分の腹部をなでた。
昨年入籍し、千波は岳との子どもを授かった。今は産休を取っているが、体調がいい時はこうして千秋たちと会っている。
「チナちゃん、千秋ちゃん。お待たせ~」
「待ってたよ~。課長に横溝さんにケンちゃん」
二人の元に来たのは、千波が部署移動して以来仲がいいメンツだ。
大草は相変わらず、配達員として千波の会社に荷物を届けにくる。
実はあの時の合コンで彼が参加したのは、仕組んだことらしい。岳にヤキモチを妬かせるため、とか。
だが、大草が千波のことを狙っていたのは事実だったらしい。今はきっぱり諦めたそうだ。入る隙がない、と。
「ほらほら三人も何か頼みなよ」
言いながら千秋は畑中にメニューを渡す。
「何がいいかな。ガッツリとハンバーグとか食べようかな~」
「じゃあ課長のおごりね」
「え。横溝さん、給料日前だから勘弁して……」
「すみませーん。このカフェで一番高いもの三つお願いしまーす。もちろん畑中課長のおごりで」
「ちょケンちゃん!?」
畑中はがっくりと肩を落とした。
だがその後に運ばれてきた料理を食べた畑中は、そのおいしさに感動して"これ選んで正解だよケンちゃん"と褒め称えていた。
入籍してからは会社の近くにマンションを借り、三人の生活が始まった。今は家を建てている最中だ。
千波の妊娠が発覚してから、家事のほとんどを岳が引き受けている。
つわりが収まったので自分もやると言ったのだが、岳はめったなことでは千波にやらせない。
「もっと自分の体をいたわりなさい! お母さんになるんだから」
夕食の食器の片付けをしようとした千波を、岳はソファに座らせた。
「大げさじゃない? 千秋ちゃんたち呆れてたよ。岳がお母さんみたいって」
「いいんだよ言わせておけば。俺はチナのことを思ってだな……」
「はいはい」
千波は苦笑いをして受け流した。付き合い始めて分かったのは、岳が意外にも心配性なこと。人に対して、限定だが。そんな彼は今でも営業マンとしてよく外回りに行っている。
「ねぇ岳。最近考えて決めたんだけど……」
「ん?」
「あたし、退職するの伸ばすつもり。課長に相談したら、出産したら何年後でもいいから戻ってきて欲しいって。今はフルリモートの仕事もあるから、って」
「そうか……課長らしいな。お前、皆に可愛がられてるからやめてほしくないんだよ」
昔は嫌だった可愛いという言葉。今では素直に受け取ることができる。
「俺の前にいる時が一番可愛いけどな」
「よくそういうこと言うよね……。恥ずかしくないわけ?」
「恥ずかしいわけないだろ」
岳は千波の隣に座り、彼女の肩に腕を回して顔を寄せる。くっついている時間が何よりも幸せだ。
「どんなコが生まれるかな……。やっぱりアニメ好きになるかな?」
「ありえるな。両親がレイヤーだからな。あ、子どもが大きくなったら三人でコスプレしてイベントに行こうか? 個人的にコ〇ンやってほしい」
「もうそこまで考えてんの? 早いでしょ……」
妊娠が発覚した時、一番に岳に話した。その次はカヤとズッキ。
久しぶりに集まろうと、千波がマンションに呼んだ時のこと。
「やっぱりチナはがっくんと結ばれるべき、ってずっと思ってたんだよね~!」
「そうそう。切谷のイベントからね」
「そういえばそんなこと言ってたね……」
二人が岳と会った時のことを思い出す。あの頃は岳のことは好きになってはいけないと思っていたし、惹かれることはないと思っていた。
「なんで思ってたんだろ……?」
「悔しかったんでしょ。まさかの相手を好きになったことに。"好きになっちゃいけない"って思った時点で相手のことが好きなんだよ」
「お、おう……。ズッキ、名言出たね」
「ありがとう。でも結果良かったんでしょ? がっくんと一緒になって」
「俺と一緒になって良かった?」
「何言わせるつもり」
もたれかけたままの岳の頬をつつく。
「俺はねー。チナとこうなれて嬉しいよ。イベントで会って同じレイヤーだって分かった時には、俺にはこの人しかいないって運命感じたよ」
「そうなの?」
「ここは素直に照れろよ。それにしてもよかったよ、チナに選ばれて。他にもチナのこと気にしてた男性社員いるからな。ケンちゃんもそうだったし」
「あたし、岳とケンちゃん以外にあんなこと言われたことないんだけど……」
「あぁ。それはチナが雰囲気大人過ぎて近づけなかったみたいだぜ? 俺としてはラッキーだったよ」
ひそかにモテていた話はもうどうでもいい。
ただ一人、受け入れようと決めた人に見つめられさえすれば。
「……私も、嬉しい」
そう小さくつぶやいた千波は、頬をかすかに染めてうつむく。
その表情をのぞきこむように、岳は顔を近づけた。ニヤケ面で。
「え? 何? 聞こえなかった。もう一回言って」
「やだ!」
逃げようと立ち上がりかけた千波を、岳は腰に腕を回して座らせる。
「いーじゃんもう一回聞きたいからさ~」
「もう一回聞きたいとか、さっき聞き取ったってことだよね!? 言いません!」
「言って下さーい」
岳は千波の首筋に顔を押しつけた。彼の吐息がくすぐったくて肩を震わせた千波は脱力し、ため息をつく。
(ホントは何回言っても足りないくらい嬉しい……。でもその度に喜ばれるのが照れるんだって……)
すると、岳が千波の頬に唇を押し当て、首に腕を回した。
「岳……?」
「やっぱいい。言わなくてもチナが何を考えてるか分かるから。照れる姿だけで充分」
それだけ一緒にいる時間が長くなってきたということか。
千波も彼の背中に腕を回し、すぐそばにある彼の耳にささやく。
ゆっくりと岳が離れ、今度は直接唇にキスをしてきた。
────愛してる、岳。運命感じてるのはあたしも一緒だから。
絡められた指を握り返す。
瞳を閉じると、自然と頬がほころんだ。
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