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第3章 Part6【オープン・ファイル −巨匠の本領−】
「あ〜〜〜臭っ! もうっ、全然匂いも汚れも落ちないし! あと腕も腰も疲れたし!」
互いに過去も思いもぶつけ、本当の意味でジャンヌと分かり合えた、その翌朝。私はドルナーレの居城の裏庭で一人、桶に張った冷たい水に両手を浸け、土色に染まった男性服と格闘していた。
なぜこの私が、朝からこんな似合わない力仕事をしているのかですって? 追い出されたからよ! 厳密には、ドルナーレがジャンヌの絵を描くのに、他の人間がいては気が散るからってね!
とにかく暇を持て余したから、この機会に何事も経験と思って、お洗濯に挑戦してみたけれども。あらためて、王妃時代に身の回りの世話をしてくれたメイドのたくましさを思い知ったというか。やっぱり私には似合わない以前に、無理なのよ。
「もうこれぐらいでいいでしょ。いいわよね、終わっても――って、まだジャンヌの分もあるし……ぁあ〜〜〜嫌っ!!」
● ● ●
「よし、ジャンヌ・ダルク。お前さんはその椅子に腰掛けてくれ」
「あ、ああ……どのように座れば?」
「自然体でいい、好きにしろ」
ドルナーレの居城の一室。そこでキャンパス一枚を隔てて向かい合う、アタシとドルナーレ。
彼が今にも脚の折れそうな木製の丸椅子にゆっくり腰掛けると、アタシは逆にやたらと豪華な造りの椅子へと腰掛ける……のだが。不慣れなせいか、一瞬だけ椅子への座り方を忘れてしまった。
それにしても、他の部屋に比べてこの部屋だけが異質だ。広間と同じほどの広さでありながら、照らすための道具はなく、代わりに窓越しの光が辺りをほのかに照らすのみ。
加えて、先ほどからずっと漂う独特な匂い……そこら中に散乱している画材のせいか? そもそもからして、とてもあの神経質な彼とは思えぬ散らかりようだが……って、今気にするべきなのはそんなことじゃない。
「あの……どうしても描くのか? その……アタシなんかを……」
「だからそう言っているだろうが。ワシは弟子以外、この目で描きたいと思うた者しか城に入れん主義だ。一部の図々しい輩を除いてな」
その理屈だと、彼に描きたいと思われなかったマリーは『図々しい輩』ということになるが――と、今この場にいない者のことはさておき。
「どうした? 何をチンタラしておる?」
「確かに絵を描いてもらえるというのは、光栄なことなのかもしれない。それに貴方には一宿一飯の恩義がある」
「そう思うなら、早う――」
「だが、しかし! いくらお礼として一肌脱ぐことはできても、やはり出会って間もない男性の前で全部脱ぐなんてことは致しかねる! アタシだって、こう見えて乙女だ!」
たまらず声を大にしてしまったアタシの、なけなしのプライド。それが静かな空間に反響し、どこかで額縁が落ちるような音がした。
目を見開き驚くドルナーレの表情を見ていると、途端に申し訳ない気持ちが込み上げてくる。とはいえ、アタシにも譲れないものがあるんだ。
たとえ、幾度となく女を捨てる覚悟を強いられてきた人生であっても。女として生まれた以上、純情や恥じらいを容易く捨てることはできない!
「――何か勘違いしとらんか? ワシは最初から、お前さんの『腕』に興味があるんだ。女の裸など、見飽きて今さら興味など沸かん」
「えっ? ……あっ」
『実に興味深い。決めたぞ、ワシはお前さんのこの腕を描きたい!!』
そういえば、そのようなことを言っていたような……あれ? だとしたらアタシは昨日からずっと、一人で勘違いしたまま葛藤していたというのか?
……これは脱ぐよりも恥ずかしいかもしれないっ!
「さぁ、そこへ座って袖を捲れ」
「……これでいいのか?」
「それでいい。余計な動きはするなよ?」
「こ、心得た!」
「くしゃみもするなよ?」
「こ、心得た……」
「屁もこくなよ?」
「失礼なこと言うなっ!」
「だから動くなと言っただろうがっ!」
もはや反論すら許されぬ、と言うのか。肖像画のモデルというのは、ある意味拷問に等しいものがあるな。
それから程なくしてドルナーレが筆を取り、鋭い目つきでアタシの腕をまじまじと見つめてくるという……アタシにとって、何とももどかしい時間が始まった。
「ふむ……あらためて見ると、細身ながらもなかなかよい筋肉の付き方をしておるな。お前さん、相当鍛えておったのではないか?」
「…………?」
「……喋るくらいは構わん」
「そ、そうか。まぁ、そうだな……自分で言うのも何だが、戦場で旗を掲げるのもなかなかの力仕事だからな。それに、いざとなれば自分の身は自分で守らねばならないから、剣術もそれなりに……」
「なるほど。しかし女だてらに戦場へ赴いたのだ、さぞ特別な理由があってのことだろう。一体何がお前さんをそこまで駆り立てた?」
キャンパスに筆を走らせながらも、さりげなく質問を投げかけてくるドルナーレ。これもまた著名な画家ゆえの余裕ってヤツか。
だが質問の仕方に反してその内容は重く、ただでさえ身動きの取れない拷問に加えて、まるで尋問を受けているような気分になる。
「神のお告げだ。と言っても、普通には信じられないと思うがな」
「信じるか否かは関係ない、ワシはただ好奇心で尋ねたまでだ。しかし神のお告げとは、これまた興味深い。それはいつ、どんなときに聞こえるものだ? 最後に聞いたのはいつだ?」
「えっと……最後に聞いたのは……」
まさか矢継ぎ早の質問攻めに遭うほど食いついてこられるとは。これはこれで引くほど返答に困るな。
かといって彼の純粋な好奇心を無下にもできないので、ここは自分自身のためにも、己の朧げな記憶を遡ってみるが――
『アナタには、まだ守れるものがある』
――ふと思い出したのは、この世界で目を覚ますきっかけとなった言葉。
それでも、いつも聞いていたものとは声も口調も違っていた。だからあれを全くの別物とするならば、やはりアタシが最後に聞いたのは……
「……恐らく、この身を火に炙られるより前だ」
口にしたことで、あらためて自分の命運がそこで尽きたのだと思い知らされた気がした。祖国のためにこの身を捧げるという使命も、もはや無に帰したのだと。
「ならば、お前さんが信じてきたその神とやらは、あくまでお前さんの世界のものであって、こちらの世界で信じられている神とは異なる可能性がある……ということか」
「ん? まぁ、どうだろうな……そのように考えたことはなかったからな」
「こと、神という存在に関しては、仮説しか立てられんのが世の常だ。それこそ信じるか否かは、お前さん次第……それでもお前さんにとっては、少なくとも生きる支えになっていたのだろう?」
「それは確かだな。幼い頃、初めて聞いたあのお告げがなければ、今のアタシはいない」
そう、これだけは確信を持って言える。あのお告げがあったからこそ、アタシは心身共に成長することができた……この腕に現れている筋肉こそが、その証だ。
「なるほど。しかしまぁ、いくらお告げとはいえ女子を戦場へ向かわせるとは。いささか物騒な神にも思えるがな」
「今思えばそうかもしれない。しかし神は決して戦争そのものを好んでなどいない。むしろ人類の愚かな戦争を終わらせるために、その使命をアタシに託されたのだと思っている」
「戦争を好まぬ、か……ではお前さんは、その神のお告げとやらに従った結果、何を得られた?」
「えっ?」
「勝利か、名誉か、はたまた神の思惑どおりの平和か……お前さんの答えを聞きたい」
ここにきて質問の毛色が変わり、アタシはまたしても己の答えに悩む羽目となってしまった。
思い返せば、確かにアタシはこの手で旗や剣以外の何を掴めたのだろう? 酷い戦争の先に、アタシ自身は一体何を求めていたのだろう?
あえて言うなら、マリーの言っていた『英雄』という名の名誉だろうか? いや、それだって別に心の底から望んでいたわけではない。となると、アタシがあれほど戦争で躍起になっていた意味とは……
「手を見ろ、とは言ってないぞ」
「……すまない」
いつの間にかアタシは、動かすなと言われていた己の手のひらを見つめてしまっていた。今や旗も剣も握ることすらなくなった、空っぽな手のひらを。
「……アタシは本当に、この手で何を得たかったのだろうな」
「答えが出ぬということは、それはそれで羨ましいことなのかもしれん」
「羨ましい?」
「戦争で得られたものなど……ワシにとっては《後悔》でしかない」
アタシ以上に珍しく弱気な言葉を呟くなり、視線をアタシでもキャンパスでもない、足元へと落としたドルナーレ。皺だらけの指先では、いつしか筆が完全に走ることを止めてしまっている。
彼にも何か、戦争にまつわる経験や思いがあるのだろう。今まさに戦争の只中にある《エスナレフ》という国にいては、きっと避けては通れないはずだから。
「後悔とは、どういうことだ?」
「すまん、忘れてくれ。それより腕っ!」
「ああっ……」
結局この後、彼がアタシの腕を書き終えるまで、互いに言葉を交わすことはなかった。
何だか自分ばかりが過去を吐露させられたようでずるい気もするが、だからといって、無理に彼を問いただしていい理由にはならない。
それでも、いつかは彼の話を聞くときが……いや、誰よりもアタシが聞き届けねばならぬ日が来るのかもしれない。戦争に加担した者として。
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