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私は駆け出した。そこから逃げた。だって目の前で人が倒れたんだよ。恐くなった。
息を切らせながら近くの化粧室に逃げこんだ。洗面台の机の上に両手を着いた。水浸しなのも構わない。私は其所が穴場で人が来にくい場所だって知っていた。だから其所へ入った。
一人になりたかった。
ただ、一人になりたかった。
心臓の動悸は治まらない。頭の中では倒れる瞬間のあの顔が私を見て言ってくる。
「タスケテ」
私は逃げた。
彼は私を見てあんな顔をしたのか。何で。彼は本当に私を見ていたのか。彼は何を見ていたのか。
落ち着いてきた私の心に好奇心という欲が再び顔を出した。
だから見たの。あの瞬間を映した動画。
スマホはしっかりとその瞬間を見ていた。
アプリを起動して動画を再生した。
顔の見えないもう一人を隔てて、彼はさっきと同じように倒れていく。
酷い顔だ。いくらなんでも私を見てなる表情じゃなかった。じゃあ何を?
私は三回目を見た。四回目を見た。
その瞬間を繰り返し見た。
わからない。わからない。何を見ているのかわからない。
私は彼の顔を見続けた。
顔じゃ、ないのかもしれない。そう思ったのは突然だった。
彼がもし何かを見たなら、目で見る以外ない。そうじゃなかったら別のなにかで彼は倒れたことになる。私はそう結論付けた。
私は見た。
彼の目を、彼の目の中を見た。
彼の目に映っているかもしれない何かを、私は探した。
顔についている二つの目玉。その片方を見た。よく見て、よく見て、目を顔のパーツとしてじゃなくてガラスや鏡のように中に写り込む何かを探した。そして、それを見つけた。
目の中には私じゃない別の人が写っていた。きっと、間にいた人だろう。顔は見てないから、多分そうだと思った。
その人は普通の顔をしていた。何処にでもいるような地味な顔。笑っているような、いないような、何とも言えない表情でこっちを、彼を見ている。
そして、それは、目を、目を?
最初から言ってた心を読む妖怪の話。それは人に化ける。とても、とても、そっくりに化ける。
そういう妖怪だろうな。そう思っていた。
実際、そうなんだよ。
その「心を読む妖怪」は、とても上手に、本当に人そっくりに、化ける。それは、人の群れの中にいても自然に、違和感を全く感じさせない。
それは、人のすぐ側にいる。側にいた。
画面の中の、彼の目の中のその人は、目を、開いた。まぶたが上に上がった。その動きをした。
意味がわからなかった。だって始めからその人の目は開かれていたんだよ。それがまぶたの中に消えて、下からもう一つの目が出てきたんだ。
真っ黒だった。
白目がない。瞳孔も、ない。ただ真っ黒の目。
真っ黒な、闇がそこにはあった。
その闇が彼の目に写った瞬間、彼は崩れ落ちた。
あれは人じゃない。人の目じゃない。絶対、絶対、みんなが倒れたのはあれのせいだ。
私はあれの目を見ていない。助かった。助かったんだ。
そう思って洗面台の上に置いたスマホから目を離した。目の前の鏡を、見た。
鏡に写る私の後ろに誰かがいた。
邪魔かなと思って動こうとした。後ろを振り向いた。
そして、それの顔を見た。
上に人の目が描かれたまぶたが上がった。目が、開かれた。
私が見たのはそこまでです。
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