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とある活気づいた宿場町の飛脚問屋。もう日も暮れようという頃合いになって、慌ただしくその暖簾を潜る者があった。
どこぞの大店の旦那かなにかであろう。商人らしい渋好みの上質な着物を纏ったふくよかな中年男だ。
「お客人、申し訳ないが今日はもう」
飛脚問屋の主が言いかけたところで中年男は「待ってくれ、そう言わずに」と遮った。
こういう客はろくなことがないと主が露骨に顔を顰めるが、その僅かな間にも中年男はぬるりと擦り寄って囁く。
「実は脇本陣にお泊りのお侍様が、名までは明かせぬが、とあるやんごとなき御方の御血縁でな。その方たってのご要望なのだ」
数日前から脇本陣に客が滞在しているという噂は主の耳にも届いていた。いかな侍とはいえ普通なら少々裕福でも飯盛旅籠屋が関の山。相当に羽振りがよくなければ、あるいは特別な事情でもない限り脇本陣など使えるものではない。
「火急の用だが、もちろん謝礼はたんと弾む。それに滞りなくことが済めばお前さんの尽力があったと口添えもしよう。悪い話ではあるまい」
「ううむ」
悩んでいる素振りこそしていたが、主の心は概ね決まっていた。いい話だ。羽振りのいい侍に恩を売る機会など滅多にない。
「仕方ありませんな。それで、急ぎなのでしょう。なにをどちらまで運べばよろしいので」
「おお、受けて貰えるか。実はこちらの書状をな、五つ先の宿場町にある平旅籠屋で宿を取っている桃枝という若い女性に渡していただきたいのだ。明日の朝に」
「なるほど五つ先の宿場町の……いや今なんと。明日の朝に、ですか」
あまりの期限の短さに主が目を剥いたが無理もない。宿場町の間はおよそ十里。五つ先なら五十里になる。体力自慢の者が朝から晩まで走ってようやく届くか届かないかという距離である。
ほとんどの飛脚は昼間に走ってきたばかりで疲労困憊もいいところだというのに、それを今から明朝までに届けろとは。
「そう、明日の朝だ。無理は重々承知している。なんとか、お前さんの力でなんとかならんのか」
ぐいぐい迫ってくる中年男の顔を手で制しながら主は少し思案する。
「なんとかと言われましてもな。いやまあ、ふむ。こういうときのためのあの男か」
「当てがあるのだな」
「“百里駆け”の早彦という男がいましてね、その名に違わず早馬のような速さで走り続けられるような奴なんですが、これがまた偏屈というか、陽のあるうちは寝てばかりでしてね」
「つまり今も寝ていると」
「ええ、奥の寝所で。まあ二刻はしないうちに起きて来るでしょう。早彦の足ならそれでも十分明朝に間に合いますよ」
先ほどまで渋っていた主の押す太鼓判によほど安心したのか、中年男は大きく息を吐いて肩の力を抜いた。
「いやあ本当に助かった。おっとそうだ、お代を払わなくてはな」
そう言って渡された包みは薄く、しかし受け取ると内側に板状の手触り。まさかと開いてみればそこには小判が三枚入っていた。無理難題を受けたとはいえ、それにしても法外な額だ。
「いいんですか、本当に。お城を繋ぐ仕立便でもこんな額にはならんでしょう」
まさかこの上さらに無理難題を重ねられるのではと半ば疑心暗鬼になっている主の肩を中年男が軽く叩く。
「かまわんかまわん気にするな、そういうことに糸目を付ける御方ではない。気が引けると言うならその金で早彦とやらに飯でも女でも与えてやってくれ」
「そこまでおっしゃるなら、ありがたく」
にやける顔を抑え切れない主に書状を渡した中年男は「ああ、この話はくれぐれも口外無用にな。そうすれば儂も次の機会があったときお前さんに頼みやすい」と釘を刺すように言い残し、来たときとおなじように慌ただしく暖簾を潜って出ていった。
「まいど、今後とも御贔屓に……あ、名前聞いてねえな」
見送った主はそこでようやっと気が付く。急な話に無理難題、挙句に相場を遥かに凌ぐ大金とあまりに目まぐるしかったものだから、中年男も依頼主の侍の名も聞きそびれてしまった。
あの中年男も脇本陣に滞在しているのだろう。今からでも追うか迷った主は、結局手元にある小判三枚と相談して止めておくことにした。
折角の降って湧いたような儲けと縁だ。機嫌を損ねて無くしては元も子もない。
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