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彷徨える大うつけ編(前編)・第五話 【焼き討てば涙雨】
気づいたら私は、自宅のマンションのロビーに着いていた。
ずっと走ってきたのか、途中からトボトボ歩いてきたのか。学校で嫌なことがありすぎたせいで、ここまでどんなふうに帰ってきたのか覚えてない。
それでも帰巣本能で帰ってこれてしまう……それが自宅。多分、今のワタシにとって唯一の居場所。
でも、どうせまた誰もいないに決まってる。あの人は今日も夜遅くまで仕事だから。
あの人がワタシのこの頬の傷に気づくとしたら、多分明日の朝。早くても今夜。それまでにワタシは、せめてもの言い訳を考えておかなきゃ。
まぁ、あの人が今さらワタシの気持ちなんて聞いてくれるとは思えないけど――
「――あっ、買い物」
● ● ●
「(やっぱり間に合わなかった……)」
今日は卵が安くなる日って、ずっと念頭に置いていたのに。急ぎ足でいつもの駅近のスーパーまで来てみれば、案の定売り切れていた。
これもあの金髪女と、あと校長と教育実習生のせいだ。ワタシの計算では、日直当番の仕事込みでも間に合うはずだったのに。
と、いつまでも心の中で嘆いていても仕方ない。ちょっとお高いけど、卵はコンビニで買うことにしよう。卵だけは妥協できないし、卵さえあれば何でもできると信じてるから。
「(お菓子も買っちゃった……)」
面倒だけど商店街を抜けて、駅の反対側にあるコンビニへ。思わぬ散財こそあったけど、一応卵は買えた。
ちなみに、このおやつは……アレよ。今日一日頑張った自分へのご褒美と、あとは気慰めってヤツ。
今はとにかく、何かに甘えたい。とはいえ甘えられる人がいないんだもの、お菓子くらいいいよね。
さぁ、帰ろう。今後のことを考えると、足が重く感じるけど――
「(――あれっ、お母さん?)」
ふと遠目に見えた、駅の改札口から出てくるあの人の姿。朝出かけていったときと同じスーツ……やっぱりそうだよね?
だとしても、まだ夕方なのに何で? いや、それより隣の男の人は誰? 同じスーツ姿だし、同僚か得意先の人?
ワタシが知らない人と、普段ワタシには全く見せない笑顔で楽しそうに喋って……
論より証拠、百聞は一見にしかず。気になることが多すぎて、ワタシはエコバッグを手に提げたまま、無意識にあの人の後をこっそりつけていた。
我ながら何やってるんだろ、とは思うけど。それでも今知らずして、いつ家族の知らなかった一面を知れるというの? ただでさえ日頃から会話も少ないのに。
それにしても、二人ともどこへ行くの? 駅を出てから家とは真逆の方向だし、どんどん人気のない所へ行くし……
と思ったら、やがてとある小さなビルの中へと入っていった二人。その玄関口にある看板には、《休憩、三時間利用で四千円。以降三十分ごとに千円》って、コレ――
● ● ●
「家の近くまで送ろうか?」
「ううん、大丈夫。ここから近いし、一人で――っ!? 信織……」
すっかり日も落ちた町外れのとある建物から、仲睦まじく出てきた大人の男女。そのうち女の方が、エコバッグ片手に立ち尽くすワタシの顔を見て、一気に血の気が引いたような顔をした。
ワタシはこのときを待っていた。あれから二時間近く、ずっとここで。ちらほら行き交う人間から訝しげな視線を向けられながら。
そしてずっと考えていた。顔を合わせた瞬間、第一声で何て言ってやろうか。『おかえり』? いや違う、そんなありきたりな挨拶じゃなくて、もっと効果的なヤツ――
「――お母さんの仕事って、体を売る仕事なの?」
「えっ……いや、その……これはっ……!!」
「ここがお母さんにとっての居場所なの?」
自分でも反吐が出そうな文句で、実の母親を問いただす。当然だけど気分悪いよね、ワタシも母親も。あと、母親の横で「えっと……娘さん?」とか言ってオロオロしてる、そこのアンタも。
もちろん部外者を交えるつもりなんてない。これはワタシたち親子の問題だから。
であると同時に最終確認という名の、自分なりの慈悲のつもりでもあるの。もしかしたらワタシの勘違いってこともあるかもしれないから。
けど今の二人の戸惑いを隠しきれてない顔とか、逆にさっきの妙にスッキリしたような顔とか見たら、ハッキリしたよ。そこにワタシが願うような、一縷の望みもないってね。
「毎日疲れた顔で帰ってくる理由が分かった。そりゃ激しい運動したら疲れるよね」
「ちっ、違う! 私はっ――」
「触んな!!」
言い訳がましく母親が伸ばしてきたその手を、ワタシは……回し蹴りで弾き返した。
曲がりなりにも親である人の、悲しそうな目で手を押さえる痛そうな顔。その後ろで助けにも入れず、唖然としてるだけの男の顔。もはや全部が全部白々しくて、痛々しい。
正直ワタシだって心が痛いよ。ただ、どうしても我慢ならなかったんだ。さっきまで得体の知れない男のナニを握っていたであろう、汚れた手で触られることだけは。
「信織……」
「もういいよ、お母さんにとってワタシは、どうせお荷物だし」
「そんなこと――」
言いかけて、それ以上は言葉に詰まる母親。やっぱり自分でも思い当たる節があるんじゃん。
そんな遠回しの本音が見えたところでワタシは、回し蹴りの際に落としてしまったエコバッグに手を伸ばした。とにかく早くこの場から消えたかったから。
ワタシの足元で割れて、パックから地面に漏れ広がってしまっている卵たち……ゴメンね。君たちもこんな酷い目に遭うために生まれてきたわけじゃないのに。
他にもエコバッグから心配そうに顔を覗かせる、今晩の食材たち……そもそも誰のお金で、誰のために買ったんだっけ?
……やっぱりワタシなんて、いらないじゃん。
「信織っ!!」
本当は責任持って自分で拾い集めるべきなのは、頭では分かってる。分かってるけど、そんな気になれないワタシは結局何一つ拾わず、目の前の現実から逃げるようにそのまま手ぶらで駆け出してしまった。
あらためて名前を呼ばれても、決して振り返ってなんかやらない。だってもう、醜い大人の顔なんかみたくないから――……
● ● ●
何だか全身が軽い。余計な荷物を捨ててきたからかな。
その割には肩とか足とか、重たくも感じる。疲れたからかな? 喧嘩とか人間関係とか、何もかもに。
夜でもまだまだ明るい商店街の中を、あの人に見つかりたくない一心で、あてもなくほっつき歩いて。で、その末に行き着いた駅前の広場で、大きな丸い花壇の縁に腰掛けて……
そういやワタシ、上に黒いパーカー着てるとはいえ中は制服のままだ。おまけに髪も赤く染めちゃってるから、これじゃまるで不良少女じゃん。
「(何でこうなっちゃったんだろ……?)」
今日に限って、放課後からの運勢が最悪すぎる。何だか昨日までの平穏な日々が幻だったみたいに。
明日には待ち受けているんだろ? というか、それ以前に明日なんて来るのかな?
これまでの自分が嫌いで、これからの自分が怖くて……そんな過去と未来の板挟みで今を生きてる自分が、意味分からない。
できればこのまま、どこか遠くへ消えてしまいたい。とはいえ、手持ちのお金は買い物で使い尽くしたし。あとポケットにあるのは空の財布とスマホと、家の鍵だけ。
何でまだこんなもの持ってるんだか。あの人も帰ってくるような場所なんか、もう二度と帰りたくないのに。
今のワタシに、帰れる場所なんて――
「信織ちゃん?」
「……マコ?」
――ふと聞き馴染んだ声がして顔を上げたら、目の前にはワタシと同じく制服姿の友達が、そこにいた。
「どうしたの、こんな所で……何で泣いてるの?」
言われて初めて気づいた。ワタシ、いつから泣いてたんだろ?
こんなみっともない姿を、一番気を遣わせたくない人に見られてしまって恥ずかしい。
かといって、一旦溢れ出したこの感情を今さら抑えることなんて、できそうない。
「ねぇ、信織ちゃ――っ!?」
「マコ……ワタシっ……」
思わず立ち上がり、両手を広げて抱きつく。いくら友達だからって、今までハグなんてしたことなかったのに。
周りの目も気にしないで、さすがに迷惑だよね。それは後で謝るとして、今だけは許してほしい。
それと今だけは受け止めてほしい。ワタシが吐き出すこと全部……だってワタシにはもう、マコしかいないから。
「ワダジッ……もうっ……どごにも居場所がないっ…………!!」
誰にも言えないと諦めていたはずの言葉が、今になって溢れ出してくる。そのせいで余計に自分が惨めに思えてきて仕方ない。
けれど友達は、こんなどうしようもない他人事をただ黙って聞き流してくれて。
それから親にもされたことないほど優しく……こんなワタシを、そっと抱きしめてくれた。
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