アイネクライネナハトムジーク

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アイネクライネナハトムジーク  この歳になるとめったに気持ちが浮足立ったりすることはないが、年末のこの時期はどこかそわそわしてしまう。招待状をもらったときには待ちわびていたような、あるいは恐れていたような、そんな気持ちになった。アイロンをあてたシャツに袖を通し、化粧棚からカフスボタンを出して袖口を締める。薄くなった髪にオイルをつけ、ネクタイを結んで鏡の前に立った。久しぶりに会うのだから野暮ったい恰好ではいられない。少し迷ったが、万が一の場合に備えて引き出しの中にしまっておいたワイヤーは持っていくことにした。年寄りがなんのために、と思われるかもしれないが、これも昔取った杵柄だ。役に立つこともあるだろう。  レストランに着くと、少し早すぎたようだった。  テーブルに案内してくれたホールスタッフは、「お早いお着きでしたね」と、慇懃ではあるが明らかに戸惑った表情だ。広い会場の中にテーブルがいくつもあるが、白いテーブルクロスが敷かれているだけで、食器がきちんとセッティングされているのはひとつだけだから案内されるまでもなくどこに座るべきか分かった。時計台を見ると時刻は11時をまわったところだ。いつ見ても見事な時計台だ。レストランの中央にあるスイス式の仕掛け時計で、それがこのレストランのトレードマークになっている。  テーブルの上で手巻き時計を眺めていると、やがてレストランのオーナーが現れて握手をする。 「珍しい時計ですね」  オーナーは40代でまだ若く、亡くなった先代からこの店を継いだ二代目だ。幼い時から知っているが、有能な青年に育った。先代の遺言を守って私を年に一回こうして招いてくれる。 「この時計は先代から受け継いだものです」 「じゃあぼくと同じだ」  オーナーは屈託なく笑う。仕立てのいいスーツの袖から覗くのは非接点充電のスマートウォッチだった。私はにっこり笑ってうなづいた。 「でも、気をつけてください。この時計の時間は合っていません。時折あえて巻くのをやめるのです」 「なぜですか?」 「時間が流れるのがときどき早すぎると感じるからです」  私が答えるとオーナーはその言葉をうまく咀嚼しきれないような表情をうかべた。世界中どこにいても正確な時間を瞬時に計算して表示してくれる便利なものにあふれているからこそ、この若手実業家は私の言葉にぴんとこないのだろう。  とはいえ、オーナーとの食事は素晴らしかった。彼が招き入れたシェフの腕がいいのだろう。伝統的なドイツのシュヴァーベン料理を出す店は日本ではそう多くない。今日は貸し切りだが、普段は日本に駐在しているドイツ人や大使館の人間が本格的なヴァイツェンビールとザワーブラーテンやシュヴァイネハクセを食べるためにここに来る。オーナーは普段このレストランの経営以外にも手広くヨーロッパの輸入品を取り扱っているらしい。私には彼の話す内容の半分も理解できなかったが、それでもいい。歳のせいでなかなか日本から出ることができない私は、ベルリンやミュンヘンの蚤の市やクリスマスマーケットの話を聞くだけで過去の思い出にひたることができた。  食事が終わるとオーナーは1杯のコーヒーを飲んで、ひとこと断りを入れてから席を立った。この後も商談や会議があるらしい。もちろん問題ないと言って私たちは互いに握手して別れた。デザートのトルテが運ばれてくる間、私は一人になることができた。  先代のオーナーとはミュンヘンで会った。あの頃、私達はまだ若く、お互いに夢があった。私はそこで職人として修行していた。彼女の気をひくために多くの贈り物を贈った。とはいえ、金のない貧乏訓練生だったので贈ることができたのはハンドメイドのものばかりだ。木彫りで様々なモチーフの人形をこしらえては彼女に贈った。犬や猫、天使や兵隊、王様に王女様。クリスマスの時期になると、私達はそれをフラットの窓際に並べてキャンドルで彩った。彼女と結婚してともに人生を歩んでいくという選択肢を、そのときの私はどうしても選ぶことができなかった。  12時を知らせる音楽が流れる。モーツァルトの調べが店内に響き渡る。そして時計台のからくりが動き始めた。やっとまた会える。彼女が日本で結婚してレストランを開くと知ったとき、1体のバレリーナ人形を作って贈った。記憶の中の彼女に似せて作ったものだ。今のオーナーは母親に私のことをなんと説明されただろうか? 古い友人、たぶんそんなところだろうか。  12時に時計台から現れるのは何十年も前に贈ったあのバレリーナ人形だ。何か修繕する必要があればと思って持ってきたワイヤーも、おそらく必要ないだろう。その日も彼女は美しかった。曲が終わると、私はレストランの席を立つ。あと何度彼女に会うことができるだろうかと考えながら。 了
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