【もや恋10】48歳主婦、かつての恋を肴にビールを飲む夜

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【もや恋10】48歳主婦、かつての恋を肴にビールを飲む夜

 もう何年も忘れていた人のことを、ふと思い出すことって誰にもあると思う。今夜の私がそうだ。懐かしい思い出を記憶の中から手繰り寄せているうち、気が付けばスーパーでいつもは飲まないヱビスビールを買っていた。若き日の元彼、岡本哲平が好きだった銘柄である。  今日、あまり親しくない友人から久々に連絡があり、その会話の中で哲平の話題が出た。何しろもう別れてから20年以上経っているので、一瞬「だれだ?」と思ったが、目尻にしわの寄る独特の笑顔を思い出してからは、ずっと彼のことばかり考えている。  すっかり忘れていたといっても、当時は本気で好きだった人だ。雑多なものを目につかないよう放り込んでいるうち満杯になった押入れのように、いったん扉が開けば中身がこぼれてしまうのは仕方ない。  そして、次から次へと浮かんでくる若き日の思い出は、予想を超えて甘くセンチメンタルだった。お陰ですっかり感傷的になってしまった私は、ヱビスビールの6缶パックと、これもまた哲平の好きだったスナック菓子を買って、雪が降りそうな冷たい北風の中、自転車で家路を急いでいるところである。  哲平とは23歳から25歳まで付き合った。私は短大を出て社会人3年目、彼は一浪して入った大学の2年生。友人たちが企画したサマーキャンプで知り合った。私の方が2歳お姉さんだったが、カメラという共通の趣味があったので、機材の情報交換をするうち自然に付き合うようになった。  はっきりと告白されたわけではないが、哲平が私を撮った写真を見せてくれたとき、「私はこんなにも幸せそうに笑うのか」と驚き、同時に自分が彼のことを好きになっていることに気づいた。そして撮った本人は、明後日の方向を向いて耳たぶを赤く染めていた。今思えば、あの瞬間が私たちのはじまりだったように思える。あまりに昔すぎて、美化されているだけかもしれないが。  哲平とは、いろんな場所へ旅をした。二人とも若くてお金がなかったので、体力勝負の貧乏旅行だ。在来線を乗り継いだり、夜行バスで眠ったり、ホテル代を節約するためカラオケで夜明かしすることもあった。  そして撮った写真を見せ合いながら、コンビニで買った缶ビールを飲む。その時、いつも哲平が選ぶのがヱビスだった。貧乏なんだから発泡酒にすればと言っても、そこだけは絶対に譲れないポイントらしく、それがとても記憶に残っている。  哲平が就活で忙しくなってからは、デートや撮影旅行の回数も減ってしまったが、あまり似合わないリクルートスーツに身を包み、必死に飛び回っている彼を見ていると、会えなくて寂しい気持ちよりも応援したい気持ちの方が強くて、こっそり神社へ行って神頼みをしたりもした。  彼は特にイケメンでもなかったし、お金持ちでもなかった。そして私も美人には程遠い平凡な容姿で、どんなに頑張ってもモテ系にはなれないタイプだ。しかし、私たちはとても良いカップルだったと思う。お互いを尊重し、思いやる気持ちがあった。彼と過ごした日々が懐かしく思えるのは、きっとそういう幸福感を心が覚えているからではないだろうか。  しかし、ずっとそんな日々が続くのかと思っていた哲平との関係は、25歳の冬に終わった。ようやく彼の就職先が決まり、報告しに来てくれた日のことだ。なんと、私は振られてしまった。私にとっては青天の霹靂だったので、実感がわくまで長い時間がかかったのを覚えている。 「東京? 哲平、東京に行っちゃうの?」  目を丸くしてそう尋ねる私に、哲平は硬い表情をして無言で頷いた。私たちの暮らす街から東京は、新幹線どころか飛行機の距離である。いくつも面接を受けていたのは知っていたが、その中に東京の企業が含まれているのを私は知らなかった。  どうして最終選考に残った段階で、離れ離れになる可能性があると教えてくれなかったのだろう。そうすれば、少しは心の準備ができたのに。それでも私はすぐさま「遠距離恋愛でも頑張れる」と気持ちを切り替えた。  彼について行くという選択肢がないわけではなかった。しかし、当時の私は仕事が面白くなってきた頃で、資格取得にむけて勉強も始めていた。仕事も恋愛も大切で、どちらも諦めるつもりはなかったのだ。しかし、彼は違った。 「ごめん、俺たち、別れよう」  さっきまで、この世でいちばん近くにいた人が、見知らぬ誰かになってしまったような気がした。彼が何を言っているのか、耳では聞き取れるが、脳が理解するのを拒んでいる。私はただ震える声で「どうして」と、それだけ絞り出すのが精いっぱいだった。  その夜は、何時間も堂々巡りの話をして、明け方近くに哲平は帰って行った。一人暮らしの私の部屋でよかった。現実が浸みこむのと同時にあふれる涙を、誰にも見られずに済んだ。私は哲平を失いたくなくて、一緒に頑張ろうと説得を続けたが、彼の意志は変わらなかった。  就活が本格化するにつれ、それまでぼんやりと「大学を卒業してサラリーマンになる」と考えていた彼の意識の中で、本当に目指したい方向性が明確になってきた。そしてその目標に向かって進むうち、浮上してきたのが東京にある企業である。  もちろん、哲平は私との関係についても悩んだという。遠距離で交際しているカップルもいるが、自分はこれから社会で足場を作っていくルーキーであり、一浪したぶん周囲よりも出遅れている。そんな中で、恋人を故郷で待たせたまま仕事に集中できるだろうかと。  また、私は既に社会に出ており、来年にはもう26歳になる。これから哲平が仕事を覚えて一人前になって、ようやく私と東京で生活を始められるころには、三十路を超えている可能性が大きい。そう考えて哲平は「女性にとってもっともよい時期を、自分のために無駄にさせるのは申し訳ない」という結論を出したようだ。  私は、会えないことは寂しいけれど、その時間が無駄になるとは思わなかった。本音を言えば、付き合いが2年目を過ぎたころから「近い将来、二人で暮らせたらいいな」とは思い始めていたが、それより彼の夢を応援したかった。それくらい彼のことが大好きだったし、私たちは変わらずうまくやっていけると信じていた。  しかし心の片隅で、時間の計算をしていたことも否めない。女のライフサイクルには妊娠や出産のリミットがあり、そのリスクを賭けてでも彼との恋を貫くかと問われれば、きっと躊躇しただろう。そんな先の見えない「不安」があって、私もそれ以上哲平を引き留められなかった。  もしもあのとき、哲平が結婚の「け」の字でも匂わせてくれていたら、私は30歳を越えようが、彼を待っていられたと思う。結局、私はずるい女だったのだ。人並みに幸せになりたかったし、自分の人生を犠牲にすることで彼の重荷になるのも嫌だった。  私たちはお互いを尊重し、思いやる気持ちを持っていた。それが別れるときには裏目に出て、すっきりしない最後になってしまった。こんな別れ方なら、好きな人ができたと言われる方がよほど楽だったと、しばらくは彼を恨んだものだ。  哲平に再会したのは、それから5年後。地元の友人の披露宴でばったり顔を合わせた。久々に見る彼は少し痩せて、都会の水に洗われたのか以前より精悍な感じになっていた。目が合ったときにはドキッとしたが、私はなるべく平静を装い彼に挨拶をした。 「久しぶり、元気だった?」 「うん、お陰さまで」  他愛もない会話をしばらく交わし、そろそろ披露宴が始まる時間になったので、軽く会釈をして自分の席へ向かおうとしたとき、哲平が私を呼び止めた。 「あのさ、俺は明日までこっちだけど、会う時間ない? 久しぶりに話がしたいなと思って」  そう言って笑う目尻には、見覚えのあるしわが刻まれていた。それを見て私は懐かしい感情に支配されそうになったが、5年の月日はあの頃の私たちを変えていた。私はゆるゆると首を振ると、きっぱりと哲平に断りを入れた。 「ごめんね、私もう結婚してるのよ」  つい数カ月前に、私は職場の同僚と入籍をしていた。それが現在の夫である。哲平は一瞬はっとして、やがてしょんぼりしたような、複雑な笑顔を浮かべた。 「そっか、そうだよな、おめでとう」 「ありがとう」 「今日、会えてよかった。お幸せに」  それが哲平の姿を見た最後である。そして今日、どこからか流れてきたうわさ話で「哲平くん、亡くなったらしいよ」と聞かされた。年賀状をお断りする喪中はがきが、知人の家に届いたそうだ。享年46歳、あまりにも短い人生である。  あまり親しくない友人は、伝聞の伝聞であるにも関わらず、病気がどうとか奥さんがどうとか、だらだら喋っていたがほとんど耳に入らなかった。そして私は思い出の扉を開いたまま、やっとの思いで北風の中を家に帰りつき、キッチンのテーブルで風呂上がりのビールを一気に呷っている。  泡の刺激とほろ苦い味が喉を滑り落ち、写真を見ながら夜通し語り合った、あの頃の記憶が蘇る。あれから彼はどんな人生を歩んだのだろうか。幸せだったのだろうか。夢は叶えられたのだろうか。どんな女性と巡り合ったのだろうか。  そんな妄想に浸っていた私を、プシュッ、という無粋な音が現実に引き戻した。風呂から上がってきた夫が、ビールのプルタブを開けてスナック菓子を口に放り込んでいる。 「ずるいぞ、自分だけ」  くたびれたフリースのパジャマに、ちょっと薄くなりかけている生え際。来年は五十路に突入するお腹の出たおじさんだが、かけがえのない私のパートナーだ。  そして私も、アラフィフと言われる48歳。あれから10キロも貫禄を増し、ちらほら白髪の目立つ立派な中年女になってしまった。 「なんでヱビス?」  まだ半分以上残っている住宅ローンや、高校生と中学生の娘たちの学費もろもろ。普段は「贅沢は敵」が口癖の私が、珍しくお高いビールを飲んでいることを不思議に思ったのだろう。夫がしげしげと缶を眺めている。 「ビール券もらったから、使わないともったいないかなって」  夫は「ふーん」と言って、冷蔵庫に2本目を取りに行った。まさか私が昔の彼氏の弔いをしているなど、露ほどにも思っていないだろう。  哲平にはもう、この世で会うことはないけれど、もしもあの世で再会できたらお礼を言いたい。二人で過ごした、あの輝く時代があったからこそ、こうして私は幸せに暮らしていられるのだと思う。  ──ありがとう、哲平。そして、さようなら。あなたのことが大好きでした。  心の中でそう唱えながら、私も「ずるいぞ」と夫の真似をしてビールのおかわりを冷蔵庫から取り出した。2本目のヱビスは、ちょっとほろ苦い味がした。
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