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美奈子へ。
直接伝えられないから、こうして手紙に書くことにする。
言い訳のように聞こえるかも知れない。でも、嘘偽りない本心を伝えたい。
僕は恐かったんだ。正直な気持ちを君に伝えるのが。だから、言えなかった。
思えば、僕達の結婚は、絵に描いたような政略結婚だった。親同士が決めたお見合い。
次男の僕。医者に「それほど長く生きられない」「体が弱いので子供は望めない」と言われた君。
僕の両親は、君の家と提携して事業規模を大きくしたがっていた。僕の兄は既婚者。だから、僕に白羽の矢が立った。
君の両親は、僕の家や、優秀な兄との繋がりがほしかった。家同士に繋がりを持たせることで、あわよくば、兄の子を自分達の懐に入れようとした。君は一人っ子で、家を継ぐ子がいなかったから。だから君を、僕に差し出した。
「いい人がいるんだ。とりあえず、会うだけ会ってみないか」
両親にそう言われて、僕はお見合いをした。両親の真意を知りながら。
きっと、君も、僕と同じような気持ちだったんだろう。自分の両親の真意を知っている。僕の兄の子を、自分達の懐に入れたい。もしそれが叶わなくとも、僕を婿養子として迎え入れて、家を継がせることができる。そんな真意を知りつつも、僕とお見合いをしたのだろう。
見合いの席は、親達の建前に溢れかえっていた。溢れかえった建前の中に、本音が見え隠れしていた。
それでも僕は、この見合いを受けた。僕が、兄に比べると、あまりに出来損ないだったから。こんな僕でいいのなら、なんて思っていた。こんな僕が、結婚できるかも知れない。それだけで儲けものじゃないか、と。
でも、聞いてほしい。
そんな考えは、君を一目見た瞬間に吹き飛んでしまった。
一目惚れだったんだ。
君を一目見た瞬間に、好きになってしまった。
見合いの後になって。
僕はもちろん、両親に、この話を進めてほしいと告げた。
けれど、実は不安だったんだ。僕は乗り気でも、君にその気はないんじゃないか、って。僕は兄とは違う。優秀で将来性のある人間じゃない。
だから、君から結婚の話を進めるという返答を聞いたとき、舞い上がったんだ。嬉しかった。一目見た瞬間に好きになった人と、結婚できる。そう考えるだけで、とんでもなく幸せだった。
でも、少しずつ冷静になって。
考えるようになった。
君は、両親に言われて仕方なく結婚するんじゃないか、って。本当は、僕なんかと結婚するのは嫌なんじゃないか、って。
考えれば考えるほど不安になって、どうしようもなくなって。
今のままの僕じゃ駄目だと思って。
人生で初めて、努力と呼べることをした。
僕は、昔から不出来な奴だった。何をやっても、兄の方が数段優れていた。才能の前には、努力など無駄だと思っていた。だから、自堕落に生きていた。
君の夫になるなら、こんな自分じゃ駄目だ。兄のようにはなれなくても、最低限、君に愛想を尽かされない程度の人間になりたい。君の隣にいられる人間になりたい。
その気持ちだけで、頑張れた。君がいたから、努力できた。
たぶん君は、こんな僕のことなど愛していないだろう。両親のために、僕と結婚したんだろう。
だから僕は、君に「好きだ」と言えなかった。「愛してる」なんて言えなかった。自分の気持ちを伝えて、君に拒絶されるのが恐かったから。
だから、僕より先に天国に行くだろう君に、この手紙を送る。
君が天国に行くときに、この手紙を持って行ってほしい。
きっと、天国には、この世みたいな家のしがらみなんてない。追い詰められることなく、君は本音を言えるだろう。
君の気持ちが、僕の望むものでなかったとしても。
僕は君を愛していました。
君と結婚できて、幸せでした。
天国に行った君に、他に好きな人ができても。
僕と夫婦でなくなるとしても。
それでも、大好きでした。
僕と結婚してくれて、ありがとう。
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独りで生活するのが難しくなって、私は、福祉施設に入居しました。
九十五歳。さすがに、自分ひとりで家事を全てこなすのも大変ですから。
それにしても、と思います。若い頃の私は、体が弱かったんです。医者には「それほど長く生きられない」「子供も望めない」なんて言われていて。
見合いで結婚した夫は、そんな私をいつも気に掛けてくれた。
でも、当時の医者の言葉に反して、こんな歳まで生きてしまいました。
夫が大切にしてくれたからか。それとも、医療が発達したせいか。四人の子宝にも恵まれて。孫も六人。ひ孫だっているんですよ。
できれば、夫にも見せてあげたかった。ひ孫の顔、とまではいかなくても、孫の顔くらいは。
夫は、凄い努力家だったんです。私の父の事業を継ぐために、必死に働いて。毎日遅くまで勉強もして。本当に、頑張って、頑張って。いつ寝ていたのか、なんて思ってしまうくらい。
そんなに多忙なのに、私のことも大切にしてくれたんです。私が体調を崩したときなんか、慣れない家事をして、お粥も作ってくれて。
夫が作ったお粥には、卵も塩も入っていなくて、まったく味がしなくて。ひとつ乗せた梅干しだけが、際立って酸っぱくて。
「上手くできなくてごめんな。でも、頑張って食べてくれないか」
体調を崩した私を、夫は、心配そうに見つめて。
味がしないお粥を、私は、一生懸命食べて。本当に美味しくなかったんですけどね。
あんなに私を愛してくれる人なんて、たぶん……ううん、絶対にいない。本当に本当に、私を愛してくれた。両親よりも、ずっと。
今日、孫達が、私と夫の家を引き払ってきたんです。古びた一戸建て。古すぎて、建物自体には資産価値なんてない。
子供達や孫達が、家の中を片付けて。
孫が、一通の手紙を見つけてきたんです。生前の夫が使っていた、桐の箪笥から。糊付けされた封は、開いていませんでした。箪笥に入っていたのに黄ばんでいたから、ずいぶん古いものなんでしょう。
封筒の表には、一言だけ。
『美奈子へ』
夫の、ちょっと癖のある字。
開けて、読んでみて。
馬鹿ね、と笑ってしまいました。
笑いながら、泣いてしまいました。
夫は、私よりも長生きするつもりだったのでしょう。だから、私が死んだときに備えて、こんな手紙を残していたんでしょうね。私の棺に入れるために。
長男が独り立ちしてすぐに、夫は天国へ旅立ちました。ある日、コテンと倒れて。そのまま、眠るように。頑張りすぎたのでしょう。溜まっていた疲れが一気に出たように、眠りについてしまいました。その顔は、とっても穏やかで。
夫が若い頃に書いたであろう手紙。その一文を、私は指でなぞりました。
『だから僕は、君に「好きだ」と言えなかった。「愛してる」なんて言えなかった。自分の気持ちを伝えて、君に拒絶されるのが恐かったから』
馬鹿ね、あなた。
でも、私も馬鹿。
親の希望で結婚した、私達。
正直に言うと、私は、親の勧めるままに夫と結婚したんです。
結婚したとき、夫を愛していなかった。こんなかたちでも、両親の役に立てるなら。そんな気持ちでした結婚でした。
「ねえ、あなた」
私は、手紙に──夫に語りかけました。
なんだか私、あなたが作ったお粥が食べたいわ。本当に美味しくないのに。それなのに、無性に食べたいの。
だから、また作ってくれないかしら?
「たぶん私も、もうすぐそっちに行くから」
私も、もう九十五歳。足腰だって立たなくなってきているし、自分ひとりで生活するのも難しくなった。
夫が考えていたよりも大分遅くなったけど、もうすぐ天国に行く。
夫が待っている、天国へ。
天国で、夫と再会したら──
「互いに素直になりましょうね、あなた」
語りかける私の目には、手紙の一文がより鮮明に映りました。
『君と結婚できて、幸せでした』
涙が一滴。
古びた手紙に、染みをつくりました。
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