47人が本棚に入れています
本棚に追加
橘千霧を真っ直ぐに見つめたまま、私は静かに口を開く。
「それでも……私は」
力を緩めた指の間から滑り落ちたナイフが、床に落ちて金属質の音を立てる。
驚いた表情を見せる橘千霧に、私は小さく震える唇を噛み締めてから告げる。
「私は……あなたを殺さない。たくさんの人々の命を奪ってきたあなたの罪が消えることはない。でも……それでも、私はあなたを殺さない」
「まさか罪を償えなんて言うつもりじゃないでしょうね? 私に赦しを乞えとでも」
「違う。あなたが人間の憎悪の塊だというのなら、私だって同じ。奏や夏帆、宙樹……何の罪もない友達を突然奪われた私には、あなたを憎む気持ちしか残っていない。でも……だからこそ、その憎しみをここで断ち切る」
「く……く。くくく。愚かなことを」
笑い声を上げる橘千霧の声が、次第に繭憑のものへと変わっていく。
「く……くく。だからといって、羽吹結衣、お前がここで殺される運命は変えられない。それでも私に抗わないというのか?」
「私は……傍に居る。あなたと。憎悪にまみれた愚かしい人間が朽ち果てる、その最後の時まで」
「私の傍に……居るだと?」
訝しげな表情を浮かべる繭憑に、私は告げる。
「繭憑……いえ、灯乃。あなたはずっと一人だった。真っ暗な木の桶に閉じ込められて誰の助けも来ない中、ずっと一人でもがき苦しんできた。きっとそれは、誰にも救われない、世界から見捨てられたような気持ちだったんだと思う。だからあなたは人を憎んだ。心の奥から」
「……」
「私にはあなたを助けることも救うこともできないけれど、それでもずっと一緒に居ることはできる。この命が尽き果てるまで。だから私が一緒に居る。これからはずっと」
「自ら……私に取り込まれようというのか」
胸の辺りまで繭に包まれた私を見て、繭憑は初めて戸惑うような表情を見せる。
「やはりどこまでも愚かなものだな、人間は」
「……そうかもしれない。でも、それでも……私には尊い」
溢れ出した涙が、頬を流れ落ちていく。その涙が、私の頬に触れている繭憑の指にも伝う。
「愚かで、尊いもの……か」
そう呟くと、繭憑はゆっくりと両手を伸ばして私の体をそっと抱く。その指先から伸びた糸が、次第に私と繭憑の体を包み込んでいく。
「……」
徐々に白い繭に覆われていく視界の中、私は静かに目を閉じる。
不思議と恐れは感じなかった。心の奥底に淀み続けてきた不安や、全てが失われていくような喪失感も。
「繭……憑」
そう呟いた瞬間、全身を繭に覆われた私の眼の前が真っ暗な闇に包まれる。
繭の合間から最後にわずかに見えたのは、どこか穏やかな表情を浮かべた繭憑の姿だった。
最初のコメントを投稿しよう!