「元、恋人」になるまで

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「私は」  五年前に伝えられなかった言葉を口にしようとして、途端に呑み込んだ。 「私は」  元恋人の匂いがなくなったシャツを、震える手で握り締める。これ以上、感情を閉じ込める蓋が壊れてしまわないように。 「………さよなら、なんて言えない」  意思なんて初めからなかったみたいに、シャツに縋った手が元恋人に伸びていく。 「もう一度、会いたいと思ってた」  元恋人の大きくて骨ばった手を掴んだ。 「でも、もう一度じゃ、いやだ。これから先ずっと会えなくなるなんて、いやっ。そんな未来、私は選びたくない」  元恋人と離れていた時間だけ、私の世界は曖昧で空っぽで、ただ体も心も引き裂かれるような痛みだけがあって、普通に生きるということがとてつもなく難しかった。 「……好きで、仕方ないよ」  元恋人の瞳を、誰よりも近くで見つめていたい。  元恋人の隣にいたい。  元恋人と死ぬまで一緒にいたい。  普通に生きられなくてもいいから、普通の恋じゃなくていいから。  久しぶりに、なんて言葉をもう聞きたくない。 「俺は」  ぽつりと零れ落ちた声に、顔を上げる。  焦げつくような甘ったるい瞳と目が合った。 「君を愛してる」  温かな手が私の手を掴んで、グイっと引っ張った。いともたやすく、私は恋人の香りに包まれる。 「久しぶりに、なんてもう言いたくない」  耳に触れる、切ない吐息に、胸が締めつけられて苦しい。  もう離さないというようにきつく抱きしめられて、逃げたくなるくらい苦しくて、一瞬も手放したくない幸せに満たされる。 「俺達の時間に、空白なんていらない」  長い長い空白をとかすように、恋人はそっと囁いた。
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