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兄のいなくなった世界で、私は両親に愛されて育った。
それは嬉しいことではあったけれど、どこか寂しいことでもあった。私が愛されているのは「違う」。そう思うのだ。
両親の愛を疑うことなく享受しながらも違和感がぬぐえない。
兄のいない世界で誰もが兄のことを忘れているように、私の認識もなにかが変えられている――そう感じた。
この愛情は兄のものになるはずだったものだ。記憶を探り、その答えを見つけたのは割合早い時期だった。
そう。私は両親に愛されていない子どもだったことを思い出したのだ。
幼い頃、私はいつも泣いていた。
なによりのよりどころであるはずの親から嫌われていたのだから、不安ばかりが大きくて当然だ。
私とは逆に兄は両親に愛されていたけれど、いつも居心地が悪そうだった。自分ばかりが可愛がられるのを嫌がっていいたし、私に対して申し訳なくも思っていたのだろう。
私が父にも母にも好かれていないことを、兄は悲しんでいた。
お兄ちゃんがいるからへいきだよ、と、私は慰めてくれる兄に向かって全然平気じゃない心で気丈に振る舞ってみせた。
ぜんぜんへいきじゃないだろう、と兄は簡単に私の幼い嘘など見破って私をぎゅうっと抱きしめてくれる。
――お父さんのぶんもお母さんのぶんも大事にするから、笑って。
両親のもとにいることは兄にとっても私にとっても辛いことだった。
――それなら、おいで。
そんな声が聞こえて来たのはいつだっただろう。
日々のふとした合間、閉め忘れられたドアの隙間、ふとぼんやりとした意識のはざま。そんな間隙からすい、と声はいつしか私たちの耳に届くようになっていた。
声に招かれて手招きに誘われて、気づけば兄と私は世界の切れ目を覗いていた。
そこから優しい声がする。
それは紛いものの優しさではなく、嘘も偽りもない、ほんとうにただあたたかな声だった。
――悲しいのなら、二人とも、こちらへおいで。
こちらって? という疑問は浮かばなかった。「ここ」と違うところだ、と本能で分かった。
――私の子どもになってくれないかい?
老紳士のような声でもあり、慈愛の女神のような声でもあった。
――違う世界は怖いかもしれないけど、兄妹二人一緒なら、寂しくはきっとならないよ。二人一緒に、うちにおいで。
兄と一緒に愛情をくれるひとのもとへ――。それは心惹かれる申し出で、私たちは互いの顏を見合わせた。
お兄ちゃんが行くなら行くよ、と言う言葉を私は発したけれど、兄はその言葉の中にあるかすかな嘘を見逃さなかった。
――お前はここに残って。
……と、繋いだ手を離されてしまったのだ。
――どうして。私もお兄ちゃんと一緒に行くよ。
言い募っても兄は首を振るばかり。異界の切れ目から来たひと――ひとの形を模した、大きなシルエット――は、恭しく兄の手を取り「いいのかい?」と気づかわしげに視線を寄越してくる。
兄は私を想ういつもの顏をして、私をぎゅっと抱きしめた。
――お前はお父さんとお母さんが大好きだろう?
嫌われても諦められなくて、頭を撫でてほしくて、そばにいさせてほしくって。
――だから離れたりしなくていい。ここに残って、二人に大事にされて育つんだ。
無理だよ、そんなの。無理だよ。
――ねぇあなた。
と、兄は大人びた呼びかけを異界のひとに向けた。
――そちらに行くのは僕ひとりでも構わない?
――構わないけれど、どちらか片方でも可哀そうなことになるのは、私は好まないよ。
穏やかなまま、大きなシルエットは答える。
――僕に偏っていた父と母の感情を、妹に戻してほしい。
――私の未来の息子の願いなら、叶えよう。
龍の影を持つ異界のひとは、兄に頭を下げて願いを聞き入れた。
――お兄ちゃん!
泣いて叫んだ私にすら、兄は笑うばかりだ。
――僕が気づかないとでも思う? ほんとうは、知らないところに行くのは怖いだろう?
怖くないよ、と虚勢を張ることはできなかった。たとえ兄と二人であっても、小さな私にとっては環境が変わるということは耐え難い恐怖だったから。
だけどそれは、きっと兄も同じことだったのに。
兄はそのまま、異界の扉を通って私の前から姿を消した。
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