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俺はデスクの上の文庫本を手に取る。それは、最近になって大きな賞を取った小説だ。ずっと気になっていて、今日、会社帰りに本屋で買ったのだ。読み始めると、冒頭から一気に引き込まれていった。実力のある作家なので、期待していたのだが、その期待を悠々と超えそうな内容だった。買って良かったと思わずニンマリしてしまう。 1章を読み終わったところで本を閉じる。時計を見ると、11時を過ぎていた。こうやって、一人で読書をすることが何よりの至福の時間だった。大学の時に小説にのめり込み、暇があれば小説を手にする毎日だった。それは、結婚した今も変わらない。 綾香と結婚して、本当に良かったと思う。俺は女性に全く興味がない。むしろ、女性に振り回されたり、女性の尻に敷かれたりする男を見るたびに、自分はこうなるまいと心に誓ってきた。しかし、この国では、結婚できないということが、何か致命的な欠点であるように思われるのも事実だった。そういった見方をされるのは嫌だ。けれども、結婚もしたくない。そんなことを考えていると、ふと綾香のことが頭に浮かんだのだ。 「結婚なんて興味ないんだよね」 入社したての頃、同期の飲み会で彼女がそう言っていた。もしかして、彼女なら、仮面夫婦という形を提案すれば乗ってくれるかもしれない、そう思って話を持ちかけたところ、すぐにOKを出してくれた。 結婚して、周りの評価も変わった。そして、家では一人の時間が確保されている。こんなに幸せなことはない。 俺はミネラルウォーターを一口飲み、パソコンを立ち上げる。そして、ブックマークされている、あるサイトへとアクセスする。それは、読書コミュニティで、本好きが集まって感想を言い合うところなのだ。マイページを開くと、俺のレビューに、たくさんのコメントが寄せられていた。 『レビューを見て、すぐに本屋に行きました!』 『メムリンさんがおすすめする本、はずれがないから有り難いです』 そういったコメントが並んでいるのを見て、さらに俺の顔がにやけてしまう。 俺がかぶっている仮面は、「夫婦」だけではなかった。このコミュニティでは、「メムリン」という、女性レビュワーの仮面をかぶっているのだ。3年以上もこの場所で活動し続け、確固たる地位を築いてきた。俺がレビューをするだけで、何十人ものファンが反応してくれるのだ。この活動が、俺の生きがいだった。仕事の悩みも疲れも、ここでの交流があれば全て吹っ飛んでしまう。 ふと、チュイッターのダイレクトメールに、誰かからのメッセージが届いていることに気づいた。その送り主は、「あっちゃん」だった。コミュニティで交流のある一人だ。いったい何だろうかと内容を読んでみて、俺は驚いてしまう。 『メムリンさん。こんばんは。突然のメール失礼します。実はプライベートのことで相談したいことがあります。先月に私は結婚したと報告しましたが、実は私と夫は、仮面夫婦であることを条件に結婚しました。籍も入れていますし、一緒に生活もしています。別に会話がないとかそういうわけではないのですが、部屋も別々で、赤の他人がただ同じ家に住んでいるというような形です。私は夫のことが好きで好きでたまりません。結婚したのに、一緒に暮らしているのに、夫婦らしいことが何もできないことが、悲しいです。家族や職場の人間にも相談できず、メムリンさんにこのような相談をさせていただきました』 俺は何度もそのメッセージを読み直す。仮面夫婦。そのワードに、他人事とは思えなかった。 メッセージを読むと、俺と、いや、俺の妻と同じような状況だ。あっちゃん。綾香。もしかして、あっちゃんは綾香だったりして。 俺は首を振る。そんなことがあるわけがない。読書コミュニティで交流していた人が実は妻だった、そんな確率はまさに天文学的数字になるだろう。 ただ、彼女は、「メムリン」のことを信頼してこういった相談をしてきたわけだ。もちろん「メムリン」として、それに応えないといけない。俺は返信の言葉をキーボードで打っていく。 『あっちゃん。相談ありがとう! すっごい悲しい思いをしていたんだね。あっちゃんの今の気持ちを考えただけで、私の胸がきゅうっと締め付けられちゃうよ。旦那さんとラブラブになれるように、一緒に頑張っていこうよ! まずは一歩ずつ進んでいくのが大事なんじゃないかな。週末に洋服を一緒に買いに行こうって誘うとか、そういったところから始めたらどうかな?』 メッセージを送信し、ふうっと息を吐く。こんな相談を受けることなどないので、少し緊張してしまった。ただ、「メムリン」として完璧な返信はできたはずだ。 もしかして世の中には、俺たちみたいな計画的仮面夫婦がたくさんいるのかな。パソコンの画面を見ながら、ふとそんなことを思う。
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