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 あれから、私はたいして成長しないまま、空気で、煙で、ウンチのまま、社会人になった。  隠したつもりで隠しきれてはいない、夢のような嫌な思い出があるから、タクシーを使わないように生きてきたのだけれど、仕事の付き合いとなるとどうにも避けられなくて、あれから何年かぶりにまた乗るようになった。  下っ端だからっていうのもあるかもしれないけれど、まるで助手席は私の専用席で、助手席が私を求めているかのように、乗るたびフロントガラスから広い世界を見た。  トラウマ、というと大げさかもしれないけれど、それ相応の記憶が邪魔をするから、その席はひどく心地が悪かった。  でも、基本的には経費で落ちるから、誰かが立て替えたところで、お金のことを気にする必要はなかった。タイムラグはあるけれど、きちんと申請をしさえすれば、それは返ってくる。申請なんて、「あの時のタクシー代なんだけど」なんて下手からお願いするでもなく、領収書と申請書をあわせて提出するだけだ。ビクビクする必要なんて少しもない。だから、数を重ねれば重ねるほどに、だんだんとタクシーに不快感を覚えることは少なくなっていったし、心の凍てついた部分が少しづつ溶けていくような気もした。   「ねぇ、もう一軒行かない? タクシー捕まえてさ。ミナミナも行こうよ」  先輩たちに誘われて、私は悩んだ。いくら心が過去を消化し始めているといっても、経費で落ちないタクシーは、私にとっては拒絶対象のままだったから。  私は空気で、煙で、ウンチだから、もう一軒行こうという誘いを断る術を持っていなかった。先輩が流しのタクシーを捕まえるまでの時を、ビクつきながら過ごした。  心の中で祈る。  これから走ってくるタクシーが全部、これからお客さんを捕まえられないタクシーでありますように。誰か乗っていたり、誰かを迎えに行くところでありますように。そうして、捕まらないからもう一軒行くのやめて帰るか、となりますように。 「やった! こうやってヒッチハイクみたいに捕まえたの、初めてかも!」  喜ぶ先輩の顔を、喜んだような顔をしながら見る。  きっとこの後、助手席に迎え入れられて、タクシー代を払う役目を仰せつかって――。 「ほら、ミナミナ。先に乗って」 「え、……え?」 「こんばんはー! 駅の反対側の――」  先輩は乗り込みながら、運転手に行先を告げる。私はそんな先輩に押し込まれるように、奥へ、奥へと身体を動かした。初めてかも。誰かと一緒に乗り込んで、運転席の後ろに落ち着いたの。  自分の定位置だと思い込んでいた助手席には、戸塚さんが座った。まるで、ここが俺の定位置、とでも言いたげに、シャンと胸を張って。  なんだか、変な感じがする。後部座席は二人で乗るとそんなに気にならないのかもしれないけれど、三人で乗ると隣の人が近いし、前を見ても街が良く見えないし、窓の向こうは迫ってくるのではなく、流れていってしまう。 『1100円になりますー』 「うっす」  着くなり戸塚さんがお財布を開いて、支払った。  全員が降車すると、私はお財布を取り出して、三百円出そうとした。 「ミナミナ、なんでお財布出してるの?」 「だって、タクシー代……」
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