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一度掃除はしたものの、数年間放置していた空き家からは埃臭さが抜けなかった。そこに焼香の煙も加わっているものだから、今はなおさら臭いが鼻につく。少しでも風の通りを良くしようとして障子を開け放つと、外にはかつて母が手入れをしていた花壇と庭が広がっていた。今は雑草が伸び放題になってはいるが、ちらほらと花びらも見える。
庭に面した縁側では娘の陽菜が一人遊びをしていた。子供にとって、法要はやはり退屈だったらしい。ぺたりとお尻をつけ、板張りの通路に座りこんでいる。手に持って遊んでいるのは人形のようだった。黒髪の稚児を模した和装の人形だ。おそらく、手芸が趣味だった母の手製のものだろう。顔の造りに見覚えがある。いつの間に持ち出したのかは分からなかったが、舌ったらずな口調で人形と会話している娘が可愛らしくて、私は思わず微笑んだ。
陽菜は今年で三歳になる。二年前に亡くなった母、陽菜にとっての「おばあちゃん」とは、数えるほどしか顔を合わせた事がない。それも生後間もない頃の話だ。おそらく記憶もあやふやだろう。母は、私が陽菜をこの家に連れてくることをひどく敬遠していた。長旅は大変だろうし、こちらから出向くよ、と言っても頑なにそれを拒んだのだ。今は家が散らかっているから、だとか、布団をクリーニングに出しているからと、会いに行こうとする度に何かと理由をつけて断ってきた。しかし、初孫の陽菜の存在が厭わしかった訳では無いらしく、母は何度か東京まで私達に会いにきた。
「お母さんもこっちに戻って来たら? あんな田舎じゃ、一人で生活するには不便でしょう」
母と顔を合わすたび、私は東京に戻ってくるように促した。老いた母を、遠く離れた九州の過疎地に一人で置いておく事に不安があったからだ。夫とも話し、同居を始める準備もある程度進めていたのだが、母は頑として首を縦に振らなかった。
「あそこには友達もおるけんね。心配せんでも大丈夫。お母さんの方はなんとかなるけん」
田舎暮らしですっかり九州の言葉に戻っていた母はそういって笑い、腕の中ですやすやと寝息を立てる陽菜の頬を優しく撫でた。
それから数年もしない内に、母はあの世へと旅立ってしまった。
母はどうして、私達の来訪をあれ程に拒んだのだろう。病気のことを知られるのが嫌だったのか。それとも何か他に理由があったのか。
私がようやくこの家に足を踏み入れたのは、母が亡くなった直後の手続きと葬儀を行うためで、随分と久しぶりのことだった。最後にこの家に遊びに来たのはもう三十年ほど前。まだ祖父母が生きていた頃の話だ。
子供の頃、私は母に連れられて何度かこの家を訪れていた。ほぼ毎年のことだったと思う。夏休みの度に泊まりに来ては、数日間滞在していたのだ。野山を駆けて遊んでいる内に、こちらで友達もできた記憶がある。名前は忘れたけれど、同い年くらいの女の子だった。私は彼女と遊ぶことが大好きだった。だから、夏が近づく度に「九州のおじいちゃんの家に遊びに行きたい」と、母に何度もお願いした。
けれどある時から母は、私を自分の田舎に連れて行くことをやめた。
祖父母と不仲だったわけではない。晩年の母と同じように、祖父母もまた、私に会いに東京まで足を運んでいた。久しぶりに顔を合わせる祖父母と母の様子を見ている限り、その関係性に問題があるとは思えなかった。農家としてずっと畑と共に暮らしてきた祖父母にとって、飛行機での旅路や東京の複雑な交通網を使っての移動は、私が想像する以上に負担だっただろう。それでも祖父母が不満の一つも唱えなかったということは「私を田舎の家に決して連れ帰らない」という取り決めを、母だけではなく祖父母も理解して受け入れていたということだ。
それは何故だったのだろうか。
もし何かきっかけがあるとしたなら、一つだけ思い当たる節があった。
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