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寝室だった部屋には、まだ焼香の匂いが漂っていた。
遺影の母は、黒紋付の着物姿で笑っている。
病が発覚した直後、自らの足で街中のフォトスタジオまで出向き撮影した写真なのだという。自分が亡くなった後のことまでしっかり準備をしているあたり、なんとも周到な母らしかった。
三回忌の法要は、母が晩年を過ごした古い日本家屋で執り行った。空港から最低でも車でニ時間ほどかかる僻地に建つ、母の生家だ。周囲にあるのは荒れた田畑ばかりで、商業施設どころか人の住む民家すらもほとんど見当たらなかった。祖父母がここで農業を営んでいたのはもう随分と前のことになる。二人が亡くなってからはしばらく空き家になっていた。母は幼少期をこの家で過ごしたが、高校卒業と共に職を求めて上京した。就職先で出会った父と籍を入れて以来、長く関東住まいだったが、その父が亡くなり、一人娘の私が結婚して出産をしたタイミングで、さっさと生まれた家へと戻ってしまった。私には何の相談もなしに。そして案の定、母はたった一人で逝ってしまった。
読経と法話を終え、帰り支度を済ませた僧侶に、僅かばかりの謝礼が入った封筒を渡す。祖父母が眠る墓を管理してもらっている寺の住職だ。母の葬儀の際にもお世話になった人物だった。見た目には普通のおじさんなのだが、実際に法話を聞いた後だと、どことなく徳の高い人物に見えてくるから不思議だった。
「こちらの家には、どれくらい滞在される予定ですか?」
帰り際の住職にそう聞かれた。
「あと一週間くらいでしょうか。掃除する箇所も残っていますし、土地の管理の事で不動産屋さんとも相談をすることになっているので……」
私は、母から引き継がれたこの家の所有権を近い内に手放すつもりだった。どうしても仕事が休めない、と申し訳なさそうに頭を下げた夫は東京に残してきたので、時間的な制約はない。東京と九州を何度も往復するのは億劫なので、この機会にこちらで出来ることは全て終わらせておく予定にしていた。
「そうですか……」
住職は僅かに視線を落とした。玄関先、三和土の上には揃えられた靴が何足か並んでいる。法要の参列者のパンプスが何足かと、子供用の小さなスニーカーが一足。私の娘のものだ。
「早い方が、いいかもしれませんね」
ぽつり、と住職が言った。
「え?」
「いやね、台風が近づいている予報もありますし、天候が荒れだすと飛行機も運行しない事がありますから。余計なお節介かもしれせんが」
そう言って住職は袈裟の懐からスマートフォンを取り出し、向こう一週間の天気予報図を見せてくれた。南の海上では、確かに強力な台風が渦を巻き始めているようだった。
「お気遣いありがとうございます。台風が近づいてくる前に、なんとか片付けられるように頑張ってみますね」
実際のところ、帰りの飛行機のチケットは既に取得していたので予定を変えるつもりは無かった。だが、気を遣って助言してくれた住職の厚意を無碍にするわけにもいかず、私は建前の言葉を口にした。もし台風が直撃しそうなら、近くのホテルにでも泊まればいいと、そう考えていた。
「ええ。きっとその方がいいです」
そういって住職は笑った。門を出て、合掌をしたまま一度こちらに頭を下げた彼の目は、庭木に囲われた家の中庭にじっと向けられていた。
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