影絵の空

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 雑居ビルの屋上で、寄り掛かった手すりは氷のように冷たかった。弾かれた指先が空を切る。行き場のないそれをコートのポケットにしまい込むと、昨日の夕食が記載されたレシートの角が人差し指の腹を引っ掻いた。 「仕事は嫌いだったけど、この景色は好きだったな……」  感傷的な気分でつぶやく。  向こう側に太陽を隠した山は夕空を黒く塗りつぶしている。幼さの残る私の感性はその光景を影絵みたいだと評した。  毎日これを見ながら帰宅できたらよかったのだけれど、私がこのビルを後にするはいつも日没後。八時を過ぎていた。自宅に着く頃には料理をする気力もない。電気を消さずに眠った夜の数だけ、こんな生活からは抜け出したいと願った。  今日は六度目の最終出社日。送別会は企画される前に辞退した。私は母のように男をとっかえひっかえすることはなかったが、一つの職場にとどまり続けることができなかった。  原因は母と同じ。よく吟味もせずに、生活のためだと目の前の仕事に飛び付いたから。安月給、激務、パワハラ、セクハラ、いじめ。バカなりに処世術は心得ていくものの、肝心の見る目が磨かれないままなので意味がない。  今度こそ、今度こそって。もう疲れてしまった。  こんな日には、ついつい縋るようにあの子のことを考えてしまう。  紫苑。血の繋がりのない、かわいい私の弟。やわらかくまあるい頬と、猫のように機敏に動く瞳が愛らしかったちいさなちいさな男の子。一人の男を愛し続けることができない哀れな女のお陰で出会い、その女のせいで他人以上に遠くなってしまったあの子。  私が十六歳、あの子が四歳だった秋に離れ離れになって、もう二十年も経つ。  母親似だと言われていたあの子は今、どんな顔をしているのだろう。くるんと丸まった毛先と、首を傾げて眉を顰める癖はまだ残っているだろうか。
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