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「ここは……」
目の前に広がる景色には見覚えがある。数年前に働いていた職場の近く、隣の市の駅前だった。場所だけでなく時間も移動したのか、満月が空高く輝いている。
「お前の愛するあの子が住んでいる街だ。もうすぐ、あのビルから出てくるぞ。お前はあの子に会えるんだ」
「紫苑に」
思わず頬を緩ませると、悪魔は楽し気に振り向いた。軽快なステップの中に、低く不快な声が入り混じる。
「記憶を奪われたお前が、その出会いに気付くことはないがな」
「あ……ああ」
崩れ落ちそうな膝を両手で支える。
私は会いたいのだろうか。会いたいと願えばあの子との思い出がすべて消えてしまう。
「まだ間に合うぞ。契約を破棄するか?」
悪魔の声は酷く甘く脳を揺らす。強烈な吐き気に襲われ、私は口元を押さえた。会いたい。会いたい。それ以外の言葉が出てこない。渇望している。ずっと見て見ぬ振りをしてきた心の傷口から、とめどなく思いが溢れる。
自動ドアが、開く。
だめ。わかっているのに。それでも私はあの子に会いたい。この思いを止めることはできない。
たとえ、再会に気付くことができなくなるとしても。言葉を交わすことができないとしても、私の体は何かを感じ取るはず。奇跡が。
「奇跡なんて起きやしない。私を誰だと思っている。神ではない。悪魔だ」
右手が勝手に空を掴む。
「しお――」
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