久しぶり

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久しぶり

「コーヒー」と「草いきれ」の匂い 私はこれまで嗅覚が無かった。生まれつきではない。 三十代から鼻の調子が悪くなり、四十代の初めは二十四時間鼻づまり。あまりに苦しいので病院に行くと、 「鼻は、車で言うとエンジンがオーバーヒートしないように冷やすラジエーターの役目です。鼻呼吸ができないあなたの脳は常にオーバーヒートしている状態です」 とにかく息苦しさをなんとかしてほしいと話し、ポリープ切除手術をした。ドクターは、 「嗅覚細胞は一度死滅したり、取り除くと再生出来ません。あなたはこれから一生匂いを感じることは出来ませんよ」 と言われ、覚悟を決めた。 嗅覚が無いことに慣れてくると、嗅覚が無いことに気づかない。その為に腐ったものを食べてお腹を壊すことがままある。 嗅覚が消滅してもごく稀に夢の中で嗅覚が戻ることがあった。それは「金木犀」の匂い。 子供の頃たまに母から夜の買い物を言いつけられることがあり、その途中の大きな金木犀の匂いが好きで木の下で「スースー」していた。その夢を見ると匂い付きだった。 ところがなぜか半年に一回ほど夢ではなく現実に突然嗅覚が戻ることがあった。ほんの数分だが。 ある年、田舎道を歩いていると突然「あの匂い」がした。えっ、これはあれの匂いだ!と早足で匂いのするところへ行くとまさしくその匂いは「豚小屋」の匂いだった。思いっきり大きく深呼吸して豚の糞尿の匂いを嗅ぐと鼻腔いっぱいに広がり嬉しくて涙が出た。だけど、もう次はなかった。何度深呼吸しても、もう匂いのかけらも何も無かった。 手術しても冬になると鼻は詰まる。毎冬、耳鼻科に通い薬を手にする。五十代後半の新春、耳鼻科に行きいつもの様に、 「ではお薬出しておきますね」 で終わるはずだったのに、何かがきっかけで嗅覚が無いとドクターに話した。 「え?」 と、彼。毎年鼻詰まりで来てるだけと思っていたようだ。そういえば言ってなかったのか。「半年に一回くらい数秒から数分、復活することはありました。でも、この四〜五年は無いですね。十年前に手術したドクターに嗅覚細胞は一度死滅すると再生しないと言われたので覚悟はしていますが、やっぱりコーヒー匂いは嗅ぎたいですね。私、果樹園をやっていましてコーヒーの木も育てているんです」 「いやいや、嗅覚細胞は復活する可能性は大いにありますよ。では目標を鼻詰まりを治すではなく、嗅覚を取り戻すにしましょうか?数秒数分ではなく、ずっとコーヒーを嗅げるように!」 「是非お願いします」 それから三種の錠剤と二種の点鼻薬が出され、月に一度病院に通うようになった。何も変化は起きないけど僕にしてはしっかり薬を飲み続けた。いつもは途中で飲まなくなった薬を沢山余らせるのに。 そしてそれは突然来た! 外から帰って玄関を開けると、あの匂いが。 家に入ると妻が料理している。 「もしかして、ニンニク使ってる?」 「えーっ!使ってるよー。分かるのー?すごーい」 それからしばらくはそれ以上の変化は起きなかったが、最近になって怒涛の嗅覚復活が始まった。 いつものようにコーヒーを入れようとガラス容器の蓋を開けると「久しぶりにあの匂い」が。 十数年ぶりだろうか、感動で一気に涙が出てくる。 炊飯器の蓋を開けると、炊き立てのご飯の香りに泣く。 味噌汁のお味噌の匂いに、焼きたての卵焼きの匂いに泣く。 採りたてのパイナップルの甘酸っぱい香りに、パッションフルーツのフレッシュな甘い匂いに泣く。 そしてとっても感動したのが草刈りをした時の「草いきれ」。 「そうそうこの匂いだったよなぁ」 と、ボロボロ泣きながら草刈りをしていた。 嗅覚があった頃は草刈りの匂いで泣くとは想像もできなかった。 ずっと嗅ぎたくて、気がつくと草刈り機で広い畑いっぱいを一気に刈っていた。そして刈った草を集めて山にして、頭からダイブした。 「匂いって、サイコー」 匂いは人生を豊かにしてくれる。
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