第三章

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第三章

 目を覚ますと目尻に涙が溜まっていた。アナウンスで起きたわけではないらしく、電車はまだ馴染みのない景色の中を走り続けている。  別に幸せな記憶だったわけでもない。幸せな夢だと思うのは、今が不幸な場合だ。俺は今の野洲との関係に幸も不幸も感じていない。ただ当たり前に野洲がこの世に生きていて、生きていればどこかでまた出会うだろうと思っている。それがたまたま4年前と、今日だという話だ。  俺はまだ野洲に伝えるべき祝言を思いつかないまま眠りに落ちた。 ーー  最寄り駅には人も灯りもほとんど無かった。何にもぶつかることなく流れてきた寒風が、ただ無駄に広い車道を走り抜けていく。 『駅に着いたぞ。とりあえず迎えに来てくれ』  野洲にメッセージを送る。父と母には帰郷は明日からだと伝えていた。今日は野州家に一泊する。野洲は母子家庭で祖父母も他界しているため「オカンが2人でも寂しいから、来てくれたら嬉しいってさ」と誘われたからだ。 『もう着いてるわ。右見ろ右』  野洲から返事が来て右を見ると、黒いロングコートに身を包んだ野洲が立っていた。久しぶりに目にしたからか4年前よりずいぶんと大人びて見える。これが他人の旦那と人の親になる男の風格というものだろうか。  野洲は俺の顔を見て何故か「はははっ」と笑った。俺も不思議と笑いを堪えきれなくなり「くっくっくっ」と口から音が漏れる。夜も深まった駅前で、俺たちは天を仰ぎながら大声で笑い合った。お前そんな風に笑うんだなと、そういえばずっとそう笑ってたよな、が混在する。 「とりあえず、寒いし乗れよ。風邪ひいてまう」 「おう」  野洲の軽自動車に乗り込む。走り出し、信号を2つほど越えたあたりで俺は気が付いた。 「あ、歯ブラシと髭剃り買ってへん」 「大丈夫や。うちにホテルから持ち帰ったアメニティが大量にあるから。それ使ってくれ」 「嫌や。アレ切れ味悪すぎて剃り負けんねん。コンビニで降ろしてくれ!」 「いや面倒くさいわ。家まであと2分も掛からんし」 「嫌や!できるだけお前の家に近いコンビニで降ろしてくれ!そんで寒いからできれば待っててくれぇ!」 「図々しいなお前」  俺の猛抗議も空しく、野洲は車を月極駐車場に入れた。  本当のところ、肌負けのことはどうでもよかった。俺が気にしていたのは、野洲母の所有物を借りなければならないという部分だ。  小さい頃によく世話をされた側としては、大人になって礼儀正しくなった姿を見てもらいたい。それが初手で「歯ブラシと髭剃り貸してください」は、野洲にとっては家族に軽く言うだけだろうが、俺はにとっては違う。 「遠慮なんかいらんやろ、今更」  シートベルトを外しながら野洲は言った。その理論が通るなら、今更、俺達には何が必要だと言うのだろうか。 「タバコ吸ってから戻る。寒いんやったら先に家に行っといてくれ」と車から放り出され、俺は仕方なく野洲の実家へ向かった。  道中、田んぼだった場所が一軒家に変わっているのを目にする。地元ですら俺が知らない間にその姿を変えていく。この土地は何十年後、まだ「俺の地元だ」と胸を張って言える姿でいてくれるだろうか。  野洲の実家はあの頃とほとんど変わっておらず、家の外に設置された洗濯機や、鳴らない壊れたチャイムがあの頃のままだった。 「こんばんはー、ご無沙汰してます、森田ですー」と名前を合言葉のように告げると、奥からどたどた近付いている足音が聞こえた。玄関の戸が引かれて、野洲の母が現れた。 「やー、久しぶりやなぁ森っち。えらい大きなってぇ」 「ご無沙汰してます、あの、この度は裕也君がおめでとうございます」 「嫌やわぁそんな……大人になってもて、何か泣きそうやわ」  泣きそう、と言った時にはすでに野洲母は涙をこぼしていた。野洲母の細くなった髪や、本当に心待ちにしていたように笑う顔に、俺も上手く言葉が返せなくなってしまう。 「……本当に、お久しぶりです」  2人とも言葉を継げずに玄関先に立ち尽くしていると、野洲が帰ってきた。 「何やってんねん玄関先で。早よ中入れたれよ」 「あぁ、ほんまやね。ほら森っち、どうぞ」 「うわぁその森っちって呼び方懐かしいなぁ、な、森っち」 「うるさい野洲っち」  やいやい言い合いながら家に上がらせてもらうと、野洲母が誰にというわけでもなく「お帰り」と言った。台所からは煮物の甘辛い匂いが玄関まで届いており、俺は出発前に軽食を入れてきたにも関わらず腹が鳴った。 「よかったわ。一人暮らしやったら煮魚なんか全然食べへんやろと思って、カレイ炊いたんよ。食べる?」 「いただきます」  そこからは3人で食卓の準備をし、久しぶりに誰かの作った料理を誰かと堪能した。野洲母は酒を入れたら最近すぐに寝てしまうから2人で飲んで、と俺たちに多めにビールを出してくれた。  俺がすでに2回転職していることや、野洲が最初に美幸さんを実家に連れてきた話でひとしきり盛り上がった後、俺と野洲で順番に風呂に入り、野洲が高校時代を過ごしたままで時が止まっている部屋にせんべい布団に転がった。  この部屋で寝たことなんて、遊び疲れて昼寝をした時しかなかった。並べて敷いたせいできゅうきゅうになった布団に潜り込む。こんな修学旅行みたいな感覚を、まさか今更野洲と経験することになるなんて。  俺の中ではもう、野洲との関係は4年前に静かな終わりを迎えたものだと思っていなのに。 「なぁ、野洲」 「なんや?」  俺に背を向けて横になっている野洲が返事をする。 「お前、七里のこと覚えとるか?」 「おお、えらい懐かしいな。アレやろ、名前が言いづらいって大喧嘩して、そっからチーリーって呼ぶようになった七里やろ」 「そうそう、その七里。元気にしてると思うか?」 「せやなぁ。もう会ってもお互いに顔も分からんやろし、会うことも絶対にないやろうけど、元気にしてくれてたらええなぁ」  野洲は誰が聞いても本心に聴こえるような優しい声でそう言った。今、俺にとってお前の存在がまさしくそれだよと言ったら、野洲は怒るだろうか。 「話変わるけど、美幸さんは今どこにおるんや?」 「名古屋。実家に帰ってるから、俺も明日には美幸を迎えに行かなあかん」 「殴られたか?」 「いつの時代の価値観やねん。今時授かり婚なんか珍しいもんちゃうわ……って気持ちで堂々と挨拶に行ったらこめかみどつかれたわ」  名誉の負傷や、と野洲は笑いながら言った。どこが名誉だ。 「野洲、お前は美幸さんのこと、どう思ってる?」 「美幸か? 美幸は、強くて綺麗でええ奴や」  一切の照れた様子もなく、野洲はそう言った。本人がいなければこいつもこれだけ素直になるんだな、と感心する。  俺たちの間には、今更確認できないことが溜まり過ぎている。今後も友達でいてくれるか。お前に会うの距離があって面倒くさいから、今後はLINEだけでやり取りしようや。俺が鮮魚系の居酒屋が苦手なん、ちゃんと覚えててくれてありがとう。怖さと照れ臭さで言えないことが山のようにある。  それでも、これだけは伝えなければならない。 「野洲」 「おぉ?」  まったく眠くなさそうなハッキリした声で野洲が返事をする。 「お前、幸せになれよ」 「おぉ」  抑揚の変化だけで、今度は了承された。そして、 「次はお前の番やからな」 と返された。  俺たちはお互いに一生不幸なんだろうと思っていた。俺と野洲は同じ穴の狢だと思っていたから。けれど結婚の連絡をもらった時、野洲が幸せになることを非難する気持ちは一切湧かなかった。こういう時、他の奴なら嫉妬したりするのだろうか。  俺は、野洲が不幸な人生しか歩けないなら俺も不幸な人生しか歩けず、野洲が幸せになるなら俺も幸せになると、何の根拠もなくそう思っていた。俺たちは鏡合わせなんだと、そう思っていた。まったく顔を突き合わせなくなった今でも、その感覚だけは残り続けている。 「なるわ。お前でもなれるんやから」 「おーおー」 「言いよるわ、も言えよ。さっきからちゃんと、お、でボケてたんかよ」  2人でひとしきり笑う。野洲母がお手洗いに立った音が聞こえたので「そろそろ静かに寝よか」と言って、そこからは静かに眠った。
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