月を蹴る

1/5
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
「最後に見た景色は覚えているかな」  医者らしき人にそう尋ねられて、考えてみる。目が覚める前の、一番最後の記憶。あやふやだった景色の色が少しずつ明確になっていく。群青色の背景に浮かんでいるのは、今にも手が届きそうなまんまるの黄色いお月様。だが、届きそうなのは手じゃなかった。 「月を、蹴りました」 「月を蹴った?」  医者に繰り返され、頷く。あのとき、空に浮かんでいたのは月と私の身体。見上げた足の先には月があった。その次の記憶は、穴がたくさん空いたような不思議な模様をした天井が目に入った。なぜか、瞬時に入院していることを理解したのだが、その前後の記憶が思い出せない。一時的な記憶障害だと言われたが、その記憶を取り戻すために日々医者と治療を続けている。  それと同時に今回の怪我が、事件なのか事故なのかを調べるために毎日刑事さんがお見舞いに来てくれていた。ノックの音がして、今日も来てくれたのだと、すぐに気づいた。 「今日はここまでにしましょうか。なにか思い出したら教えてください」  医者は立ち上がって、ノックをした人、刑事さんと入れ替わりで出て行った。 「冬華ちゃん、調子どう?」  背が高くて、筋骨隆々な刑事さんが入ってくるだけで威圧感があったが、その表情はとても優しいものだった。はじめこそは少し怯えてしまっていたが、何度か会っているうちにそんな気持ちも失せていた。なにより、顔立ちがすごく好みだったのだ。太くて凛々しい眉毛に、整えられた髭が男らしくてかっこよかった。だが、当然そんなこと言えるはずもなく、毎日顔を合わせるだけでドキドキしていた。  話すことが苦手な私は、刑事さん、大岩さんの言葉にコクコクと頷いた。お見舞いに来た人のために置かれている椅子に大岩さんが腰をかけた。じっと私の顔を見つめられ、恥ずかしくなって逸らしてしまう。 「今日はデザート持ってきたんだよ。病院食だけじゃ飽きるだろうと思ってね。カタラーナなんだけど食べるかな?」  カタラーナという言葉に耳だけじゃなく全身が反応した。どうして、私の一番の好物を知っているのだろうと思いながら「いただきます」と言っていた。食いつき過ぎたのか、大岩さんがハハっと笑った。また恥ずかしくなって、布団で口元まで隠してしまう。だが、そんな恥ずかしさも一瞬。カタラーナを目の前に置かれた瞬間、忘れてしまっていた。  一口含んだだけでほっぺたが落ちそうになるぐらい美味しかった。表面のパリパリとした食感と、卵がふんだんに使われている優しい味わいにうっとりとする。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!