15人が本棚に入れています
本棚に追加
需要と供給の合致
『あ、コウスケさんお帰りなさい。勉強の調子はどうですか?』
「うーん、まあボチボチって感じですかね」
四月から予備校生活が始まった俺だったが、カオルさんは初めて会った時と変わらず、普通に俺の家に住んでいた。住んでいるというか「存在している」と言うのが正しいのかも知れないが、もう俺の中に恐怖心は欠片もなかった。
パーフェクトボディージャパンと言う大会に出てくれなどと、頭に虫でも湧いてるんじゃないかと思うような提案をされた日。俺は最初反射的に断った。
「いやいや無理ですって! この体型を見て分かるでしょう。一七四センチで九十キロ近いんですよ? 運動苦手で筋力ほぼなしのマシュマロボディーでしょうが!」
『昔の私のように何を食べても太れず、筋肉つけるのにとても苦労した人間からすれば、太れるってだけで素晴らしく才能ありますから! 才能の塊ですから!』
「無茶言わないで下さいよマジで」
『それに予選までまだ半年もありますから。ね? ね?』
マッチョな幽霊にボディーメイクをしろと強要される浪人生活。どんな地獄だ。
──だが、俺にはそれでも断り切れない理由があった。
大会に出ること、それが唯一の彼の心残りだったからだ。
『コウスケさんにご迷惑をお掛けしないよう、成仏出来る可能性は試したいんです……』
成仏をたてにしてマッチョになれと言う。これは俺にとっては立派な成仏ハラスメントなのだが、カオルさんからそうしおらしく懇願されてしまうと、速やかに心置きなく成仏して欲しいと願う身としては、何か協力せずにはいられないのである。
実際、最近は自分でも流石に体を何とかしなくてはという危機感はあった。
マッチョになるかどうかはともかく、太ってると出不精になりがちだし、階段の上り下り程度でもすぐ息切れを起こす。これ以上太ったら健康にも良くないのは明らかだ。
そして今後のことも考えた。
無事来年合格し大学デビューする時に、デブとマッチョどちらがモテるかと聞かれたら間違いなくマッチョだろう。就職の面接だってデブよりマッチョの方が絶対に反応はいいはずだ。
そしてどうせなら人生で一度ぐらいはモテたい、彼女が欲しいという淡い願いもある。最初からこんな格好悪い男が何を言っても無駄だと諦め、ほのかな恋心を抱いた女の子にだってアプローチすることもなかった生活を変えるチャンスだ。
無理にでも切羽詰まった状況に追い込まれないと、優柔不断な俺は頑張ってダイエットしたりトレーニングなどしないのではないかとも思う。この機会は絶対に活かすべきだ。
カオルさんがこのアパートにいたのは、ある意味運命的な何かだったのかも知れない。
要は需要と供給の合致だ。幽霊とは言えナイスバディーの彼が専属トレーナーとしてついてくれるというのは、効率的で魅力的な体作りが約束されたことでもある。
俺 → マッチョになる。パーフェクトボディージャパンに出る。今後モテるかも知れない。
カオルさん → 心残りが晴れて成仏する。アパートも浄化されるし家賃もお得なまま。
よくよく考えたらウィンウィンの関係じゃないか。
まあ大会に出られたところで、付け焼刃の筋肉じゃ予選突破などおぼつかないかも知れないが、彼の代わりに参加することに意義があるのだからそこは問題はないだろう。
そんなこんなを考えて、結果的に俺は予備校での勉強と並行しながらダイエット兼ボディーメイクに勤しむことを決めたのである。
ただ一つ大きな問題があった。それはお金である。
「カオルさん、俺まだバイトも見つけてないので、恥ずかしい話ですが今はギリギリの生活費しかないんです。だからジムに通ってトレーニングしたりとか、プロテインとか買うゆとりが、その……」
『ああ、なるほど……』
カオルさんは少し考えると、あ、と何か思いついた顔をした。
『んーでもまだ残ってるかなあ……コウスケさん、ちょっと浴室まで行ってもらえますか』
「え? ああ、はい」
俺が何だろうと思いながらも浴室に向かうと、彼は天井を指差した。
『すみませんが、そこの天板を持ち上げてもらうと、缶ケースがありませんか?』
風呂のヘリに足を乗せ、言われた通りに真四角の天板部分を持ち上げて上を覗き込むと、俺でも知ってる有名なお菓子の縦長の缶が置いてあった。葉巻みたいな形のクッキーで結構美味いんだよな。
「これですか?」
『それです。ああ良かった、見つかってなくて。開けてみて下さい』
浴室から出て部屋に戻り、缶の蓋を開けた俺は驚いた。
「ちょっ、これお金じゃないですか!」
中にはパッと見ただけで数十万はありそうな万札が無造作に入っていた。
『私は良く代引でプロテインやらトレーニング用品を購入してたんですが、使っていた銀行が隣の駅だったんですよ。定期はあってもわざわざ一駅手前で降りて引き出しに行くのも面倒でしょう? 最近じゃ他のATMで引き出すとやたら手数料が高いしと思って、常にある程度は現金を家に置いていたんです』
「それにしても多過ぎません? ビビりましたよ」
『私は前にお話ししたように身内もいないので、急病で病院にタクシーで向かうとか、不意にお金が必要になるかも知れないですしから。代わりにそれ使って下さい。私はもう使えませんから』
「いやだけど人様のお金を──」
『どうせ銀行に残っていた一千万ぐらいの残高は国庫に入っちゃうんでしょうし、たかだか数十万を友人に使ってもらうぐらい、本人の好きにさせてもらっても良いでしょう』
「何だか、めちゃくちゃ高給取りだったんですねカオルさんて」
『普通ですよ。でもトレーニングぐらいしかお金を使うこともなかったですからね。ははは』
改めて数えてみると、四十三万三千円と小銭が数百円。
アルバイトで月に数万稼ぐつもりだった俺にはかなりの大金である。正直、慌ててバイトを探さなくても半年や一年は何とかなりそうな額だ。
「……これ、本当に俺が使ってもいいんですか?」
『構いませんよ。まあ本当は拾得物とかで交番に持って行くとかするものなんでしょうが、見つけてもらったお礼に私が全部渡したってことで過程ははしょりましょう』
「ですけど……」
『ま、どうしても気になるなら、トレーニングをお願いする依頼料ってことでチャラにしましょう』
俺が変に気おくれしないようにウィンクをして軽い口調で話すカオルさんは、まるで聖人に見えた。
こうなると赤いビキニのパンツ姿ですら神々しく思えて来るのが不思議である。
「ええっと、じゃあ早速プロテインとか買った方がいいですかね? トレーニング器具とかも分からないし……あ、ネットで調べた方が早いかな」
スマホを取り出して検索しようとすると、彼が止めた。
『今はプロテインなんて必要ありません。それはある程度無駄な脂肪を落としてからですよ。それよりもジムの件ですが、駅の反対側に毎月三千円ほど払えば、二十四時間器具を好きに使えるプチジムってところがあるので、わざわざ器具を買うよりもそこに通った方が効率的です』
「へえ、そんなところがあるんですね今は」
『それにね、意外に高いんですよトレーニング器具って。本気で揃えようとしたらその程度のお金なんてすぐに吹っ飛びます。しかも部屋に置くと結構邪魔になりますから』
「言われてみれば確かに邪魔ですね」
『でしょう? では方向性も決まったところで、トレーニングと食事を含めて、今後のこと色々と話し合いましょうか?』
カオルさんは嬉しそうな笑みを浮かべて手をすり合わせる。
会った当初の彼は何だか困ったような沈んだ表情ばかりだったが、数日色んな会話を交わすうちにお互いに打ち解けて来たからなのか、変に堅苦しいところが少なくなった。相変わらず年下の俺にも丁寧な口調は崩さないけれど。
いや、彼にとっては自分の知識が役に立つことや、何かしらの目標が出来るということは、亡くなっていたとしても変わらない行動のモチベーションになるのだろう。
俺は使っていなかった大学ノートを引っ張り出し、彼に言われるままトレーニングのスケジュールや食事についてのメモを取り始めた。個人的には食事が一番きつい壁となりそうだが、カオルさんと俺のため、ここは気合を入れて努力せねばなるまい。
俺だって死ぬ気でやれば出来るはずだ。
◇ ◇ ◇
カオルさんの勧めるトレーニング内容自体は最初、思っていたよりも楽だった。
筋トレは毎日すると良くないから週に四日で良いと言うし(傷ついた筋肉が修復される(超回復)のに一日二日かかるようで、間隔を空けないと筋肉が疲れやすくしぼんだ筋肉になるそうだ)、時間も長くて一時間程度と短かった。
きっと何時間もやらないとダメなんだろうなと想像していたので、肩透かしである。勉強で疲れた頭を休める意味でも、ジムで黙々と運動をするのは良い気分転換になった。
食事もまずは体重を落とすため、摂り過ぎだった一日の摂取カロリーを減らすだけ。
「最初のうちは、やったことない筋トレでストレスも溜まるでしょうしね」
と週に一度は本来高脂質でNGであるとんかつや唐揚げも許可してくれた。
当然量は少なかったが、大好きな物が食べられることで満足感があったし、食事制限に筋トレも加わったせいか、最初の一カ月で一気に五キロも体重が落ちた。
(これはもしや楽勝なのでは?)
と考えても致し方ないところである。
──だが、そこからはなかなか落ちなかった。
脂肪が減っても、その分筋肉が少しずつ鍛えられて来ているらしい。
トレーニングも徐々にボディーメイクという言葉に相応しくパターンも増え、きちんとカオルさんが消費も計算しつつバランスを調整したものが取り入れられた。
鍛える部位はそのたび異なる。筋肉の疲労回復のためだ。
一日目に胸と上腕三頭筋を鍛えると、一日休んで足と腹筋、翌日は肩、また一日置いて背中と上腕二頭筋、そして次の日はまた腹筋といった感じのローテーション。
筋肉にこれだけ細かい名称があるのかと俺は驚いたが、最初はメインの組み合わせを十回ずつ三セットをこなすのさえ死にそうだったのに、今はスクワットをしても懸垂をしても息切れするぐらいで済む。見た目はそれほど変化がないのに、自分でも驚くほど疲れにくくなった。
『それは体のベースが出来て来たってことですよ』
とカオルさんはご機嫌な様子で頷いていたが、これだけ頑張っているのに体重が減らないことが何となく納得が行かない。最初の一カ月よりもっと頑張っているのに。
『誰でも最初は本当に無駄な脂肪が落ちて行くので体重が減るのは早いんですよ。停滞期があってもまた少しずつ落ちるか体が引き締まって来ますから、安心して下さい』
三カ月で合計で八キロしか減っていないとガックリしていた俺に、彼はそう言って慰めてくれたが、腹筋すらシックスパックと呼ぶにはまだ程遠い。お腹のたるみがなくなった程度なのだ。
その頃には体が軽くなったせいなのか、運動することそのものに楽しさを覚え始めていたので、早く鍛えた自分をみたいと考え始めた俺は、大好きな揚げ物を封印し、鳥むね肉、ささみなどを蒸して梅肉で和えたり、ご飯も小さな茶碗に軽く一杯にしてみたりなど食事も工夫するようになった。実家にいる時から料理をするのは好きだったので、色々と考えるのは苦じゃなかった。
またかなりの無駄遣いにも思えたが、これも投資だとネット通販で大きな姿見も購入した。
風呂場の鏡では顔と、頑張ってもせいぜい上半身しか見えないからだ。
これまでは見ないようにしていた自分のだらしない体も、体重が落ち始めた今ではトレーニングの後の成果を見たくなるのである。
「そっか……カオルさんがトレーニングで亡くなった時にパンツ一枚だった理由が、初めてちゃんと頭で理解出来た気がします」
『ふふ、そうでしょう? 少しずつ変わっていく体をチェックするのがまた楽しいんですよねえ』
「マッチョって俺のひがみもあって、すげーナルシストが多いと思ってましたけど、バランスとか見るのに裸でポージングするのとかって大切なんですねえ」
『そうなんですよ。でもまあナルシストになる傾向の人が強いのは否定しません。女性のメイクとかダイエットもそうですけど、絵とか細かい模型製作とか、完成して行く過程も楽しむものは多いでしょう? マッチョだって同じですよ。しんどいですけど、その先の結果が見たくて頑張ってるようなもんですから、そりゃあ隅々まで念入りにボディーチェックしたいじゃないですか』
「はははっ、確かに!」
二人して笑っていると、彼が幽霊だとか赤パンのマッチョだとか、そういうのが本当に些細な問題に思えて来た。オカルト嫌いの俺からすれば驚異的な価値観の変化である。
まあだからと言って心霊スポットに行きたくなったとか、廃墟巡りに目覚めたなんて変化は一切ない訳だが。
ともかく俺はあと三カ月弱でフィジークと呼ばれる体型まで体を作り上げないといけない。
運動やその成果が楽しみになったと言ったところで、始めたばかりのド素人だ。勉強の方もおろそかにすれば大学デビューは幻となるのだから手は抜けない。
だがそんな切迫した状況ではあっても、俺は始める前以上にやる気に満ち溢れていた。
そして黙々とトレーニングを続けていたが、ふと気づけば九月の予選はすぐそこまで近付いていた。
最初のコメントを投稿しよう!