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本編
「倉木一馬さん! 好きです! 付き合ってください!」
気がついたら私はそう口走っていた。目の前の倉木さんが目を丸くして私を見下ろしている。
「え、ええっと。君は……誰?」
ああー、そうですよね、私のことなんか知らないですよね。同じフロアの片隅で経理をしている私のことなんて……。
年末だ、やることいっぱいあるぞっという時期に経理の二人が立て続けにインフルエンザで倒れた。五日間、つまり一週間の業務は残った者に振り分けられ残業続きになっていた。今日ももれなく残業で、ふらふらと自動販売機でホットのカフェラテを買い、振り向いたら憧れの倉木さんが立っていた。そして口から出たのが「好きです!」だったのだ。
とち狂っていたとしか思えない……。
「経理の……奥野です。」
顔がぷしゅーっと熱くなりながらどんどん下がって、大理石調の床が見える。あ、パンプスの先が痛んでる。
「ああ、奥野さん。その、ごめんね? 俺、今はちょっと……。」
はい、知ってます。彼女さんと三か月前に別れたばかりなんですよね。
「すみませんでした!」
困ったような顔をした倉木さんを残し、私は脱兎の如くその場を離れた。
うわああぁっ、もう会社に来られない!
端正な、という言葉がぴったりな倉木さんは社内外で人気がある。そんな人に脈絡なく告白してしまった!
恥ずかしくて、もう会社に来られない!
*
でも無情にも夜は明けて次の日はやって来る。
休みたい。
仕事、忙しい。
私が休んだらみんな大変……。
早めに出社し、こそこそと自分の席に着く。
倉木さんは営業なので、ほとんど社内にいることはなく直行直帰も多い。広いフロアの中の、簡易な壁で囲まれた経理の自分の席に着けばほぼ顔を合わせることがない。
私はほっとため息をついてデスクの下に置いてあるスリッパに履き替えてパソコンを立ち上げた。
*
「のぞみちゃん、お昼どうする?」
「サンドイッチの気分ですねー。」
「一階のコンビニ、残ってるかねえ?」
スリッパからパンプスに履き替え、隣の席に座る矢田さんと一緒にコンビニに向かう。矢田さんは一昨年出産し、子供を保育園に預けてから出社する。その前まではお弁当持参だったが、今は朝バタバタだそうでもっぱら私とコンビニ通いだ。
「のぞみちゃん、ごめんね、残業大変でしょ。」
矢田さんもぎりぎりまで残ってくれている。帰った後に子供の世話と家事をしていると思ったら尊敬しかない。
「大丈夫ですよ。若いですからね!」
「コンビニでチョコ買ってあげる。」
「わあい!」
*
油断していた。
朝から大量の仕事を捌いていたのと空腹で、昨日の夜の記憶はすっかり薄れていた。
エレベーターの扉が開き、乗っていた倉木さんと目が合って心臓が止まるかと思った。
「……お疲れさまです。」
「お、おお、お疲れさまです。」
入れ違いにエレベーターに乗り、息をつくと矢田さんが細い目をして私を見ている。
「……エ、エビカツサンドあるかなあ?」
我ながら不自然極まりない。
*
運命の悪戯か、私が意識しすぎているのか、あれからちょくちょくとばったり顔を合わせたり目が合う。
前まではちらりと姿が見えただけで幸せだったのに、なぜ振られてからこうも遭遇するのか。
しんどい。
*
しんどい……、熱がある。頭痛い。関節痛い。喉痛い。
「インフルエンザですね。」
お医者さんから無情の宣告。
ううー。
矢田さんに連絡する。
『大丈夫よ、前に倒れていた人たちも復帰したし、ゆっくり治しなさい。』
『すみません、会社には明日朝連絡入れます。矢田さんにうつってないいいんですけど。』
『この時期、誰からうつったのかわかんないし。なにか買って持って行こうか?』
『いえ、病院の帰りに買い込んできたので大丈夫です。』
『了解。なにかあったら連絡して。』
『ありがとうございます。』
ふう、ふう。吐く息が熱い。
熱、三八.七度。少し上がった。寒気がするから多分まだ上がる。
布団にくるまりうつらうつらしていると、次から次へと場面が変わるように夢を見る。
*
幼い頃、布団をめくるとおもちゃのトカゲがいて絶叫した夢。弟の悪戯だった。そうだ、食べ物がなくなったらあいつに買って来させよう。あの後、お母さんからめちゃくちゃ怒られてたけど、足らん。
*
高校の時に好きだった人のこと。前の席に座っていて仲良かった。かっこよかった。たわいもない話をするだけで嬉しかった。
……卒業してから告白された。お互い県外に進学することが決まっていて、その場で失恋だった。
……なぜもっと早く言ってくれなかった……。
*
大学の時に好きだった人のこと。サークルの先輩。一年だけ付き合った。別れるのと同時にサークルも辞めた。彼が卒業してやっと楽に息が吸えるようになった。
*
うーん、今までけっこう恋をしてきたかも。
倉木さん……。
就職してすぐに好きになった人。すでに彼女がいた。好きになったと同時に失恋。
そして、一週間前に決定的に失恋。
……失恋、多すぎないか?
また誰かを好きになることはあるのかなあ……。
*
ゆらゆらと揺れている感覚がして目を開ける。目の下に広がるのは会社のフロア。
見慣れた風景、聞き慣れた音。でもそれを見下ろしているのはなんだか新鮮。
わー、幽体離脱ってこんな感じ?
普段は自分の席から動くことは少ないので、興味深く見て回る。わりと広いフロアを各部署でエリア分けして、奥に社長室やらがある。
そして、営業部。
倉木さん……。パソコンに向かって難しい顔をしている。資料でも作っているのか。
ん?
倉木さんの左手小指からきらきら光る赤い糸。
どきっ。
するすると伸びていく赤い糸を目で辿る。その光りは営業のブースを出てフロアを出て階段を下っていく。
赤く伸びる星の軌跡を、見たいような見たくないような気持ちで追いかける。
そして、下の階の広告会社に入っていく。光りの糸はある人の周りでぐるぐるともつれそうになっている。
パソコンに向かいペンタブでなにかのパッケージなのか、おしゃれな絵を描いている女性。ゆるやかにウェーブのかかった長い髪を後ろに一つにまとめた綺麗な大人の女性。
私とは全く違うタイプの人。
倉木さんと付き合っていた人だ。……ああ、やっぱり倉木さんはこの人と赤い糸は繋がっているんだ。
今はもつれそうだけど、いずれまたまっすぐになって繋がるんだろう。
と思ったら。
赤い糸は星屑を纏ったように輝きながら再び伸び始めた。
?
慌てて追いかける。
あ、伸びたように思ったけど縮んでる?
また階段を昇りわが社へと戻っていく。
「すみません、奥野さんはいますか?」
倉木さんが経理の前にいる! しかも私の名前を口にしている!
「奥野は今日は休みです。なにかご用ですか?」
矢田さんが対応している。
「いえ、ではまた……。」
「あっ、あの、奥野はインフルエンザなので今週は出社しません。」
「インフルエンザ……。そうですか。」
考え込むような倉木さんにどきどきする。熱上がる。幽体かもしれんけど。
でもきっと本体熱上がってる。
倉木さんの左手小指から光りの糸が再びするすると伸びて私の周りにきらきらと小さな星を降らす。
綺麗だなあと見惚れていると、光りが集まり赤い糸となった。
糸は私の左手小指に届いたかと思うと、くるくると巻きついて可愛らしくリボン結びになった。
ぷしゅー。
……本体、きっと熱が四十度超えた……。
【終わり】
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