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①
緩やかな波の音。9月には珍しい涼やかなそよ風。ウッドデッキのビーチチェアで、俺は潮風を嗅ぐ。カーキ色の地味なビーチパラソルとテーブル。置いてあるのは、飲みかけの缶ビール。
海の昼下がり。人が砂浜を踏みしめて、近づいて来ている気配がした。
定年後に始めた、小さな海辺のカフェ。
麦わら帽子を顔に乗せたまま俺は、足音に意識を集中した。
常連客の歩く音じゃない……誰だ?
俺は、耳を澄ます。足音は2人。広い浜を、こちらにゆっくりと歩いてくる。
麦わら帽を、指先で少し上げて見る。
男と女だ。
男は、体格がよくボーダーシャツにハーフパンツ姿。
女は、ノースリーブのブラウスにマーメイドスカート。髪はロングヘアーだ。
二人とも俺と同じ60代か……。
「おう! 御厨! 相変わらずしけた面してんなあ」
ずけずけとウッドデッキに上がって来た男は、横柄な態度で言った。
「海藤……か?」
俺は、麦わら帽を脱いで男を見た。
友人の名前が、記憶から消えていく毎日だが、この男の名前は、鬱陶しいが、何年たっても忘れない。
海藤蒼太郎。南海大学ヨット部の元キャプテン。そして俺が副キャプテンだった。40年ほど前の話だ。
隣にいる女性は……。
「ひょっとして、ひとみちゃん?」
海藤の嫁さんだ。ちょっと下膨れの顔は、年をとっても変わらないな。
大学内で海藤と知り合って、卒業と同時に結婚。まだ続いていたんだ。女好きの海藤にしては優秀じゃないか。
「あの、再会の喜びに浸りたいところなんだけど、ちょっと御厨君に頼みがあって……」
ひとみちゃんは、大学時代と同じように、俺を御厨君と呼んだ。
「おう、ちょっと大事な頼みがあってな」
海藤のこのセリフ、大学時代に何度聞いたことか……。
『頼みがあってな』のセリフの後で、困ったことは全部俺がやらされた。
「わかった。カフェの中で話そう」
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