2.夏が揺れる

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2.夏が揺れる

 海辺の町から帰ってきた私を、東京は、何食わぬ顔で受け入れてくれた。  ポストに詰め込まれた大量の郵便物と不在票に、うんざりしながら、でもその煩雑さに少しだけホッとする。出掛けた時のままの、埃っぽい部屋の匂いを嗅いで、帰ってきたんだな、と思った。  海辺で毎日過ごしたせいで、こんがりと日焼けした私は、以前よりも健康的な見た目になった。少し前までは日焼けを気にして、一時間おきに日焼け止めを塗ったり、毎日欠かさずビタミンサプリを飲んだりしていたのに、その努力もすっかり水の泡だ。でも、それでもまぁ良いかと思えている自分に驚き、そんな自分を、私は前よりも気に入っていた。  わずかに残った退職金で、新しいスーツを買った。マンションの家賃を払うために、次の仕事を決めなくてはならないから、のんびりしている暇はない。転職活動に明け暮れているうちに、日々は、瞬く間に過ぎ去っていった。  関東地方の梅雨入りが発表された頃、私はようやく小さな製造会社の事務職の内定をもらい、働き始めた。社会復帰できるか心配だったが、身体に染み付いた社会人としての習慣はそう簡単に抜けないらしく、拍子抜けするほどあっさりと、私は日々の生活に馴染んでいった。  結婚の予定がなくなったことを、両親に伝えるには、かなりの勇気が必要だった。  一大決心をし、深呼吸をしてから電話を掛ける。  淡々と説明する私に、母は一言も口を挟まなかった。もしかしたら、親ならではの鋭い勘で、不穏な何かを察していたのかもしれない。 「ねぇ、あの人が今どこに住んでるか分かる?」  話し終えた私に、ドスの効いた声で母が言った。 「さぁ。知らないけど、何する気?」 「一発殴ってやろうと思って」 「何それ」  母が腕まくりする姿が目に浮かび、思わず笑ってしまう。 「ありがとう。でも、もう大丈夫だよ。実は、気分転換に旅行に行ってたんだ。それもあって、やっと自分の中で整理がついた気がする」 「彩羽を振るなんて、あの人、よっぽど見る目がなかったのね」 「楽しみにしてくれてたのに、ごめんね」  呟くと、しん、と沈黙が流れた。  結婚だけが、人生における幸せのすべてではない、とは思う。でも、結婚は、分かりやすい幸せの形のひとつだ。私は、幸せな結婚をして、両親を安心させてあげたかった。そして、それがもうすぐ叶うことを、嬉しく思っていた。  しばらくして、「何言ってるの」と母が呟いた。 「彩羽の幸せが一番じゃない。謝る必要なんてない。あなたは、自分の幸せだけを考えていれば良いの」 「やだ、お母さん。もしかして、泣いてる?」 「ダメね。年取ると涙脆くなって」  隠れて鼻を啜り上げる音が聞こえる。その涙は、紛れもなく、私のための涙だった。それが手に取るように分かって、胸が熱くなる。 「ほんと、嫌になっちゃうわ」  そう、ごまかすように笑う涙声に、「ありがとう」と心の底から呟く。  愛されて育ったんだな、と思った。  奥山さんから連絡が来たのは、その頃だ。  金曜日の夜だった。パジャマ兼部屋着姿でソファに横になり、だらだらとSNSを眺めていた私は、突然スマートフォンに表示された番号を見て、文字通り飛び上がった。  ドドド、と一気に心臓が高鳴る。レシートの裏の走り書きを繰り返し眺めるうちに、私は、奥山さんの電話番号を暗記してしまっていた。ソファの上に正座し、意味もなく髪の毛を撫で付ける。テーブルに散乱した食べかけのお菓子が、やけに目についた。 「はい」  通話ボタンを押した瞬間、早く出すぎただろうか、と不安になる。どうしよう。待ち構えていたと思われて、引かれたら嫌だな。  その時、スマートフォンの向こうで、かなり大きな音がした。ガタン、と何かが激しく衝突したような音。ついで、押し殺したような呻き声が聞こえる。 「……奥山さん?」 「はい、奥山です」  ややあってから、返事が聞こえる。電話越しに、奥山さんがほっと笑うのが分かった。 「いろはさん、ですよね。お久しぶりです」  その声を聞いた途端、泣き出しそうな、笑い出しそうな気持ちが、喉に込み上げてきた。それをぐっと飲み込んで、努めて平静な声を装う。 「大丈夫ですか? 凄い音がしましたけど」 「ええ。手が滑ってしまって。スマホが足の小指に激突しましたが、無事です」 「え、それ本当に大丈夫なんですか?」 「正直かなり痛いです」  情けなく奥山さんが笑うので、笑い事じゃないのに、私もつられて笑ってしまった。 「今、ご自宅ですか?」 「はい」 「あの、月、見えますか?」 「月?」  立ち上がり、カーテンを開く。ガラガラと窓を開け放して首を伸ばすと、確かに、藍色の夜空に丸い月が浮かんでいた。 「見えますけど……」  それがどうしたのだろう、と思っていると、スマートフォンの向こうで、奥山さんが慌てる気配がした。 「いや、あの。別に、大した理由はないんです。ただ、月が綺麗だなぁと思って、それで」  言い訳のように言い連ねる声を聴きながら、わざわざそれを知らせるために電話してきたのか、と可笑しくなる。でも、凄く奥山さんらしいと思った。 「本当だ。本当に、綺麗な月ですね」  ベランダに出て、手すりに腕を置き、空を見上げる。ここ最近は雨続きだったから、こんな風に月がよく見えるのは、久しぶりだ。  いや、それ以前に、ゆっくりと月を見上げたのは、いつ以来だろう、と思う。奥山さんからの電話がなければ、わざわざベランダに出て、月を見上げることはなかっただろう。海辺の町と東京では、時間の流れ方が違うと思っていたけれど、そうか。下ばかり向いていないで、こうやって、外に出て空を見上げてみれば良かったのか。 「あ、これセクハラになりますか」 「えっ?」  びっくりして聞き返すと、奥山さんが早口に呟いた。 「ほら、『月が綺麗ですね』って、気軽に言いづらくなったじゃないですか。夏目漱石の、例の逸話が有名になりすぎて……」 「ああ」  夏目漱石が、『アイラブユー』を『月が綺麗ですね』と訳したというのは、割と有名な話だ。愛の告白の常套句として、ドラマや映画に登場することもあるから、私も知っていた。 「大丈夫です。それにあれ、本当に漱石の言葉かどうか怪しいらしいですよ。都市伝説に近いものみたいです」 「そうなんですか?」  それなら良かった、と奥山さんが心底安堵したように息をつく。  ふっと、静寂が訪れた。  ひんやりとした心地よい風が、前髪を揺らしている。スマートフォンをスピーカーに設定し、室外機の上に置いて、うんと両手を伸ばした。  今夜の月は、満月だろうか。  眩しいほどの黄金色の月明かりが、ゆらゆら漂う綿毛のような雲に、淡く透けて輝いている。星は数えるほどしか見えないけれど、四角く切り取られた狭い夜空は、まるで小さな宇宙のようだった。  月が綺麗だということを、言葉通りに伝えるには、どうしたら良いのだろう。そんなことを、ふと思った。  そして、『アイラブユー』よりも、愛を伝えるのに相応しい言葉はあるのだろうか、とも。
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