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朝、目覚めると同時にカーテンを開けると、強烈なまでの白い日差しに、つかの間目が眩んだ。三分の一しか開かない窓を、限界まで開け放つ。命を振り絞るような蝉の鳴き声が、どこからか聞こえる。じっとりとした重たい湿気を、肌に感じた。
朝食を取り、定例の診察を終えてから、いつものようにノートを開き、ピアノの前に腰かける。身体に染み付いた、指ならしの練習曲。それを一通り弾いた後で、喉の調子を整えるために、いくつかの歌を歌う。
作曲に取り掛かるのは、その後だ。バラバラになったメロディーの断片を、繋ぎ合わせ、また分解し、組み立てていく。時折、チラリと時計に目を向ける。彼女が来るのは、たいてい午後の2時半を過ぎた頃だ。作りかけのこの曲を、はやく完成させたい。そして、誰よりも一番に、彼女に聴いてもらいたかった。
テーブルの上には、満月の形のクッキーが並んでいる。蜂蜜とバターの甘い香りを嗅ぐと、カラカラに渇いて固くなった心が、柔らかくほどけていく気がした。
医師によると、嗅覚は、記憶を呼び覚ますトリガーとなり得るらしい。プルーストの小説『失われた時を求めて』で、マドレーヌに紅茶を浸した時の香りが、主人公の幼少期の記憶を呼び起こしたように、蜂蜜とバターの甘い香りが、眠っていた僕の記憶を呼び覚ましたのだ。
夢花さんが来たら、一緒にクッキーを食べよう。そして、昨日話せなかった、色々な話をしよう。
別れ際、涙を隠すように顔を伏せていた彼女のことを思うと、針で刺されたような痛みが心臓に走る。
信じがたいことだが、僕は、彼女の顔と名前を忘れていたのだ。
『はじめまして』と言って、この病室を訪れてくれたあの日。『友達になってくれませんか?』と、手を差しのべてくれた、笑顔を思い出す。彼女の顔と名前すら忘れてしまった僕のために、それでもこの部屋にやって来て、辛抱強く、そばにいてくれたのだ。
僕の記憶の混濁は、加齢によるものではなく、数年前の交通事故が原因だから、何らかのきっかけで快方に向かう可能性もあると言われていた。
きっと、夢花さんがそのきっかけなのだ。
まだ、細かいことは思い出せない。でもきっと、これからは何もかもが上手くいく。夢花さんと語り合って、ともに過ごして、笑い合ったら、忘れてしまった大切な記憶も、きっと取り戻せる。そんな予感がした。
しかしその日、どんなに待っても、夢花さんは来なかった。その次の日も、何日経っても、彼女がこの病室を訪れることはなかった。
医師に尋ねても、首をかしげるばかりだった。それどころか、夢花さんの名前を出すと、さっと顔をこわばらせた。記憶が戻ったことは喜ばしいはずなのに、浮かない顔をしている理由が分からなくて、僕は余計に戸惑った。
夢花さんに、きちんと謝りたかった。そして、心からの感謝の気持ちを伝えたかった。
何より、また彼女のことを忘れてしまうかもしれないと思うと、気が気ではなかった。
作曲に身が入らなくて、椅子から立ち上がる。
ぐるぐると部屋の中を行ったり来たりしながら、口の中で、彼女の名前を呟く。夢花さん。大丈夫、まだ覚えている。夢花さん、夢花さん、夢花さん。何度も何度も、繰り返し呟く。もう二度と、忘れたくなかった。僕のせいで、もう二度と、彼女のことを傷つけたくなかった。
そうだ。
彼女のことを、書き留めておこう。もしも忘れてしまっても、また思い出せるように。でも、普通に書くのでは駄目だ。万が一誰かに読まれてしまったら、また、彼女が酷い目に遭うかもしれない。
急いで、もう一度ピアノの前に座る。それなら、良い方法がある。僕だけが分かる、唯一の方法だ。
B5サイズの白いノートを開く。肌身離さず持ち歩いている、僕の分身のようなノートだ。
日に焼けて、所々黄色く変色したページ。
手書きの五線譜に並ぶ、おたまじゃくしのような音符を、指で辿っていく。書き散らした、走り書きの歌詞の断片。もしも明日、すべての記憶が消えてしまっても、僕は、必ずこのノートを開くだろう。
その時、ふと、何かが頭に引っ掛かった。今作っている曲の、最初のフレーズ。
「ラ、シ、ド」
頭の中で、五線譜に記された音符が、メロディに変換される。
その瞬間、あ、と息をのんだ。
ノートを小脇に抱えて、僕は病室を飛び出した。
*
ドアをノックする音が聞こえて、顔をあげる。
「奥山さん」
名前を呼ばれて、首をかしげた。
誰だろう。ショートカットの女性。見覚えがあるような気もするが、靄がかかったように頭の中がぼんやりとして、思い出せない。
首をかしげる僕のことを見て、その女性が、はっと表情を改めた。背筋を正して、ゆっくりと僕の方へと歩いてくる。
「はじめまして」
手のひらを差し出して、その人が笑う。
その顔が、一瞬、泣き出しそうに歪んで見えたのは、見間違いだろうか。分からない。でも、その笑顔は、まるで満開のひまわりのように美しかった。
閉めきった窓の向こうで、絵筆の先で掃いたような白い雲が、薄紫色の空にたなびいている。夏の終わりを告げるように、どこかでツクツクボウシが鳴いていた。言葉にならない寂しさが、なぜか、胸を焦がした。
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