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プロローグ
「ラ、シ、ド」
というピアノの音色が、ホールに響き渡った時、あなたに名前を呼ばれたような気がした。
一本のスポットライトが射す、ステージの上。
白い光に照らされた鍵盤の上を、長い指が、魚のようにひらめく。慎重に、でもしなやかに。暗い海の中を、泳ぐように。
す、と息を吸い込む音を、マイクが拾う。
「アイ、ラブ、ユー」
と、あなたが歌う。ラ、シ、ドという静かなメロディーにのせて。
その魔法のような調べが、閉ざされた空間に満ちた瞬間、青みがかった暗闇が、宇宙に変わってしまう。
十年前よりも、少しだけ震えた歌声。
その歌声を、細大漏らさず聴くために、数万人もの観客たちが、全神経を傾けているのが、分かる。固唾を呑み、瞬きも、呼吸すらも忘れているのが、分かる。
彼が、無期限の活動休止を発表してから、十年。
今夜の、この一夜限りの復活ライブは、開催できたこと自体が奇跡のようだった。
押し殺した泣き声が、どこからか聞こえる。啜り泣く声が、さざ波のように、広がっていく。彼の音楽を愛してやまない人たちの、願いが、祈りが、ゆっくり、ゆっくりと満ちていく。
歌うあなたの瞳には、どんな景色が映っているのだろう。
ただひとつ分かっているのは、そこに、私がいないことだけだ。あなたが見つめる世界の中に、私はいない。
長い睫毛の下の、まっすぐな瞳。その瞳の中に、かつて、私の姿が映っていたことがあること。その優しい声で、私の名前を呼んでくれたことがあること。
そのことを、泣き出しそうなくらい、強く思う。それだけで、生きていけると思う。
何万人もの瞳が輝く、閉ざされた宇宙の中。
でも、私の目に浮かぶのは、どこまでも青い空と、海の色だ。足の裏にこびりつく、ざらついた砂の感触だ。軋んだピアノの音色と、空に吸い込まれていく、遠い日の歌声だ。
永遠に変わらないものなんて、ひとつもない。すべては目まぐるしく移り変わり、消え去っていく。
でも、この想いだけは変わらない。そう、自信を持って言える。
「あなたが、自由に歌を歌えますように」
私は今も、それだけを祈っている。
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