2.夏が揺れる

2/6
前へ
/15ページ
次へ
 それ以来、私と奥山さんは、時々電話で連絡を取り合うようになった。  仕事を終えて帰宅し、一息ついた、夜の9時頃。  月の見える夜も、見えない夜も、夜空を見上げながら、私は奥山さんと他愛もない会話をした。雨の日は、雨粒が窓を叩く音に耳をすました。そうしていると、この住み慣れた狭いマンションの一室が、まるで、あの海辺に姿を変えるようだった。  私が海辺の町を去ってから間もなくして、奥山さんも、東京に帰ってきたらしい。私が暮らしている場所から、そう遠くは離れていないところで、彼もまた、日々の生活を送っていることを思うと、何だか不思議な感じがした。私にとって奥山さんは、あの海辺のピアノと分かち難く結びついていて、雑多な日々に追われている彼の姿が、上手く想像できなかったからだ。 「実は、来年辺りに新曲を発表できそうなんです」  奥山さんがそう教えてくれたのは、指輪のような月が浮かぶ夜だった。 「本格的に活動再開できるかは、まだ分からないんですが。まずは、そのための第一歩ということで」 「……そうなんですね」  インターネットで『奥山ソラ』と検索すると、トップに出てくるのは、活動休止についての記事ばかりだ。  なかでも目を引くのは、SNSにアップされた『奥山ソラ』の投稿について扱った記事だ。交通事故と、亡くなった女性について言及した、たった数行の文章。それが、五年前、世間で大きな物議を醸したことは、記憶に新しい。目を覆いたくなるような、誹謗中傷の言葉。それらは今も、ガラスの破片のような鋭さを持って、インターネットの海に漂い続けている。  復帰したら、奥山さんは、再び世間の目に晒されることになる。ふいに、海辺の町で、彼にスマートフォンを向けていた若者たちの姿がよみがえり、肌が粟立つのを感じた。  奥山さんは、きっとまた、たくさん傷つくだろう。  心ない言葉を浴びせられて、ちょっとした発言を意味深に捉えられて、ねじ曲げられて、彼のことなんて何も知らない人たちの娯楽のために、消費される。そのことを思うと、とても素直に喜べなかった。 「無理だけはしないでくださいね」 「ええ、それはもちろん」  それしか言えない私に、奥山さんが、微笑むのが分かった。 「いろはさんにも、早く聴いていただきたいです」  会おう、とはどちらも言わなかった。それを言ってしまったら、きっと、今の関係が壊れてしまう。  アーチの形をした、銀色の細い月。それを見上げながら、海辺の町で失くした婚約指輪のことを、ちらりと思い浮かべる。あの指輪は、今、どこの海を漂っているのだろう。  男女の友情は成立するのか、という永遠の問いに、想いを馳せる。  答えは、分からない。でも私は、奥山さんの良き友人であり続けたかった。 *  平年よりも早く始まり、いつまでも続くかと思われた長い梅雨は、唐突に終わりを迎えた。  梅雨が明けると、一気に暑い夏がやってきた。  最高気温、37度。これだけ暑いと、毎朝会社へ出勤するだけでも一苦労だ。他人のじっとり湿った背中になるべく触れないようにしながら、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に揺られ、強烈な日射しが降り注ぐ中、駅から職場への道のりを歩く。それだけで、アラサーの私は、もうへとへとになってしまう。  家と職場を往復する生活は、面白くもつまらなくもないけれど、日々の繰り返しに紛れて、別れた彼との思い出は、少しずつ薄まり、色褪せていくようだった。そのことに喜びや悲しみを感じる隙間もないくらい、さりげなく、私はあの人のことを忘れていった。  奥山さんとの連絡が途絶えたのは、そんな夏の初めだった。  約束しているわけではないけれど、奥山さんからの電話は、金曜日の夜に掛かってくることが多かった。だから私は、金曜日だけは何があっても絶対に残業しないようにしていたし、会社の人に食事に誘われても、用事があるからと断り、帰路を急いだ。気づけば、代わり映えしない一週間の中で、金曜日の夜だけが、日々を照らす目印のように輝いていた。  しかしその夜、いくら待っても、奥山さんからの着信はなかった。  スマートフォンを片手に、ベランダに出る。  まとわりつくような湿気が不快だけど、今夜は月がとても綺麗だ。月のうさぎの影まで、くっきり見える。目を凝らすと、月の上を赤く点滅しながら飛んでいく飛行機が見えた。その機体から、チョークで描いたような白い線が、まっすぐに伸びている。  あれは、たぶん飛行機雲だ。  夜でも飛行機雲が見えることを、初めて知る。それは、とても美しい眺めだった。  ノンアルコールのジュースを飲みながら、手すりにもたれ掛かり、私はいつまでも月を見上げていた。  奥山さんに、あの月と飛行機雲のことを伝えたかった。スマートフォンを確認するたびに、ピンクのクラゲのキーホルダーが、ゆらゆら揺れる。日付が変わるまでそうしていたけど、遂に、奥山さんから連絡がくることはなかった。飛行機雲は、少しずつ滲んでいき、やがて夜闇に溶けて消えてしまった。  新曲の準備に取りかかっていると言っていたから、きっと、それで忙しいのだろう。  初めはそう思っていたが、一週間、また一週間と過ぎていくうちに、不安が首をもたげてきた。  海辺の町で、奥山さんに、最後に会った日。砂浜に膝をつき、亡羊とした目で、私を見上げていた姿を思い出す。いつも冷静な彼が取り乱し、ひどく震えていたこと。触れた手のひらが、氷のように冷たかった、あの感触を思い出すと、いても立ってもいられなくなった。  彼が抱えているものが何なのか、私は知らない。でも、あの時の様子は尋常じゃなかった。パニック障害。自律神経失調症。当てずっぽうに、当てはまりそうな病名をインターネットで検索する。その説明を、端から端まで繰り返し読んでは、余計に不安がつのっていく。  近くに家族はいるのか。頼れる友人はいるのか。奥山さんが一人暮らしなのか、そうでないのかも、私は知らなかった。  もしも奥山さんが、ひとりぼっちで倒れていたら、どうしよう。  想像は、どんどん悪い方へと加速していった。  これまで、奥山さんからの連絡は何度も受けてきたが、自分から電話をしたことは一度もなかった。  逡巡の後、スマートフォンのダイヤル画面を開き、思い切って発信ボタンを押す。  しかし、コール音が鳴るよりも早く、メッセージが流れた。 『お掛けになった電話をお呼びしましたが、電源が入っていないか、電波の届かないところにあるため、掛かりません。後ほどお掛け直しください』……  翌日も、その明くる日も、同じだった。タイミングをずらして、繰り返し電話を掛けても、奥山さんが電話に出ることはついぞなかった。  茹だるような8月がやってきて、私が働く製造会社は、一週間のお盆休みに入った。  その日は、雲ひとつない晴天だった。  キャップを被り直して、そっと左右を見渡す。アスファルトの照り返しが、ひどく眩しい。じゅわじゅわという蝉の鳴き声が、絶えず響いている。  レシートの裏の走り書きが示す住所は、都心から少し外れた、閑静な住宅街にあった。  ドラマに出てくるようなタワーマンションを想像していたが、奥山さんが暮らしているのは、意外にも、庶民的なマンションだった。6階建ての、こじんまりとした建物。色褪せた壁に、ところどころ、緑色の蔦が絡んでいる。見た目からして、築年数もかなり古そうだ。  額を流れる汗を拭う。  私がやろうとしていることは、ただのお節介かもしれない。迷惑だと思われて、嫌われるかもしれない。それでも、ここへ来ずにはいられなかった。  見上げると、晴れ渡った真昼の空に、白い月が浮かんでいた。クラゲのような、霞んだ月。  彼が、「月が綺麗ですね」という言葉を伝えることすら、躊躇っていたこと。そのことを、どういうわけか、思い出した。  エントランスを通り、オートロックのインターホンの前に立つ。  人差し指を、ゆっくりと伸ばした。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加